南緯45度の星空案内人
第2回 「後悔しない人生求め、ニュージーランドへ」
Writer: 米戸実氏

《米戸実プロフィール》

1964年大阪生まれ。子供の時から南半球に興味を持ち始め、ハレー彗星はニューカレドニアへ。卒業後にニュージーランドへ冒険旅行に出て、旅行と南半球にすっかりはまる。両国の旅行会社に勤務し、現在クイーンズタウンでスターウオッチングツアーを運営する傍ら、オーロラ撮影に熱中。

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あれは中学生の時でした。授業で川柳を作ることになったのです。川柳だから季語も不要で、自由な表現が許されるということで作ったのがこれです。「椰子(やし)の葉の 潮騒沙やかに 南十字星(サザンクロス)」。この川柳は人気投票で学年3番になりました。今から考えれば、この頃から「サザンクロス」を仰ぎ見る事が一つの夢、いや目標になっていたのかも知れません。

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時は流れて大学在学中、1986年にハレー彗星が回帰しました。しかし南半球の方が条件が良いと知った私は、彗星をこの目で見ることを半ば諦めていました。南半球までの旅費は大学生が出せる金額ではなかったのです。しかし、どうしても諦めきれない私は親に「この彗星をどうしても見たい!」と話しました。すると「出世払いでいい」という事で旅費を出してくれたのです。目的地はまだ割安なニューカレドニアにしました。今では私も親になりましたが、子供の夢にお金を出してくれた両親に大変感謝しています。

ただし、両親にとって旅費を出したのは、大失敗だったと思います。この時の旅行が引き金となり、私は結局日本を離れてしまう運命になるのですから・・・。親元を離れて1万キロも彼方に行ってしまったまま戻らず、おまけに出世していないからお金も返していない。両親にしてみれば踏んだり蹴ったりです(笑)。

そのハレー彗星ツアーは、ニューカレドニアなのに参加された方は、私も含めて全員男性という、なんとも色気のないツアーでした。しかし、エスカペーデという小島に宿泊して行った撮影は、今でも忘れることのできない思い出です。実は砂浜で撮影しながら居眠りをしてしまったり、スコールに襲われて慌てて近くにあった卓球台の下に避難したりと、彗星を撮影しているとは到底思えない環境で、本当に楽しかったです。主役のハレー彗星は、思ったほど明るくなく、当時流行のフジ1600を使ったのですが、それでも手動ガイド3分は短すぎたようです。

ニューカレドニアの空には、天の川を泳ぐ逆さまのさそり座をはじめ、地平線まで星がくっきりと見え、私に相当の感動を与えました。その反面、日本の空気がかなり汚れているのを知ってしまいました。当時の私の目的は、大自然の中で住むこととだったため、日本に落第点を与え、いつの間にか海外移住を決定的なものにしていました。

大学も卒業に近づき就職活動中、既に数社から内定を頂戴し、私は銀行員として社会人になるつもりでいました。そんなある日、ある一枚の写真を見て心が揺れ始めてしまったのです。その写真こそニュージーランド最高峰が湖に反射し、写真を逆さまにしても全く同じ景色が見えるものでした。これがその写真です。

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湖はニュージーランド西海岸のフォックス氷河村から5キロほど西進した所にある小さな湖です。これに最高峰マウント・クックとマウント・タスマンが反射しているのです。これを見て「なんじゃこりゃ!(前話に引き続き登場)」と胸を打ちぬかれたような衝撃が走り抜けました。「ニュージーランドにはこんな奇麗な景色があるのか!」「銀行員になってお金の事で一生を終えるのか?」と自問自答が始まってしまったのです。人生は一度きり、後悔したくないと思い、ニュージーランドについて下調べを始めていました。

するとどうでしょう、興味のある情報が出てくるわ出てくるわ。大自然、英語、美しい景色と被写体、スキー、そして南天の星々・・・。長期で冒険旅行をするにはもってこいの大地でした。そしてワーキングホリデーという制度の存在を知ってしまってからは大変です。もう止まりません。大学を休学することも考えましたが、正規の授業料を払い続けないと休学扱いにはならないらしく、結局私は内定をお断りして、大学卒業後にニュージーランドへの冒険旅行の道を選ぶのです。1987年のことでした。翌日には大手運送会社の夜間アルバイトを始め、お金が100万円貯まったら出発しようと決めました。当時は1年オープンの航空機チケットも高額で、現在の2倍近い283000円で買った覚えがあります。

そして1988年7月の暑い日伊丹空港には、ニュージーランドへ一年間の冒険旅行に挑戦するフレームザックとスキー板を持った私の姿がありました。日本の真夏にスキー板を持って空港にいるのは、周囲にかなり異様な光景に映ったことでしょう。しかも搭乗する飛行機はシンガポール航空。水上スキーに間違われていたに違いありません。

12ヶ月のニュージーランド滞在は、私に大いなる夢を見させてくれました。マウントハットスキー場の3ヶ月間だけでは、残念ながらスキーの腕前は写真の様に上手くはなりませんでしたが、現地で日本人男性と知り合いました。そして、帰国後にその方が栂池高原スキー場で運営する喫茶店をお手伝いすることになりました。

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その甲斐あってか、2ヶ月でスキー検定1級に合格、年末には一般旅行業務取扱主任者試験もパスしました。これだけの年月を要し、資格2本立てで海外のスキー専門会社の入社に挑みましたが、結果は見事に『不合格』。悔しくて競合の会社に入社しました。カナダのスキーツアーで有名だったこの会社で「オセアニアも強いぞ」とアピールする日々が続きました。

しかし、旅行の世界で異常なまでに繰り広げられている安売り合戦は、私に大きな失望を与えました。そんな時ふと我に返りました。「俺は一体日本で何をしているのか?」「大自然なんかあったもんじゃない!」「人が人として生きていけない!」と、3年間の海外旅行営業マンの座をきっぱりと捨て、自分が自分らしく生きていける環境を模索することにしました。答えはすぐに出ました。ニュージーランドです。ニュージーランドこそ自分の故郷であり、自分が自分らしく生きていける所に違いないと、再出発を決意したのです。その後は、運良くニュージーランドのツアーオペレーターに拾って頂き、私はクィーンズタウンに着任しました。

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1993年からは、ツアーガイドとして日夜日本の皆様のお世話をさせて頂くようになりました。2000年からは他社との違いを出すために、そしてこれだけ美しい夜空を皆様に味わって頂きたいと、スターウオッチングツアーを開始しました。現在は独立してガイドカンパニーを設立し、スターウオッチングツアーが看板商品となっています。

次回は、クィーンズタウンで見られるオーロラについて紹介したいと思います。

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