南緯45度の星空案内人
第21回 「南半球で見た彗星の思い出」

Writer: 米戸実氏

《米戸実プロフィール》

1964年大阪生まれ。子供の時から南半球に興味を持ち始め、ハレー彗星はニューカレドニアへ。卒業後にニュージーランドへ冒険旅行に出て、旅行と南半球にすっかりはまる。両国の旅行会社に勤務し、現在クイーンズタウンでスターウオッチングツアーを運営する傍ら、オーロラ撮影に熱中。

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彗星、それは遠い宇宙からやって来た「汚れた雪玉」と言われます。しかし、雪玉だからと言って白色ではないようです。かなり黒い化粧はアスファルトよりも黒く、その反射率は一桁。故に、随分遠い所から太陽熱を吸収してしまい、遥か木星軌道あたりから後ろに尾を伸ばすものもあるそうです。しかし、そんな真っ黒な雪玉が、天空であのような美しい姿を見せるとは、この宇宙の神秘に感謝したいものです。

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私が彗星という言葉を初めて聞いたのは、小学4年生の時に友人に連れられて行った大阪駅でのことです。そう、寝台特急「彗星」です。ずいぶん難しい漢字であることとその響きが大変格好良かったので、すぐにその正体を調べたのを覚えています。

しかし、説明文は大変難しく、9歳の子供が理解できる言葉は「汚れた雪玉」だけでした。なぜ宇宙に汚れた雪玉が存在するのか・・・と思いながら、それ以上は難しすぎて理解不能でした。その時に数枚の彗星写真を見ました。非常に不可思議な筋が伸びていて、とても深い興味を抱きました。1973年のことでした。写真に写っていたのは、おそらく1910年に回帰した時のハレー彗星だったと思います。地球が彗星の尾の中を通過したために、一瞬地球上の空気がなくなるというデマが流れたのもこの時です。

そして、時は1985年。翌年に回帰してくるハレー彗星を「どうしても見たくて」、私は親に借金してニューカレドニアに出かけるのです。その借金のことは過去の原稿に書いた通りですが、実は未だに返済しておりません(笑)。そしてその時のツアーで経験したすべてが私を変えてしまいました。実に素晴らしい夜空で、旅は楽しい以外の何物でもなかったのです。たとえトラブルに巻き込まれたとしても・・・。

しかし、大学を卒業してニュージーランドにやって来た私は、何年間も星から遠ざかっていました。それは、都会に住んでいて、目新しいことに集中してしまったためです。ニュージーランドと言えども都会では満天の星は見えません。その星空に引き戻されたのは、93年から住み始めたこの街クイーンズタウンに来てからです。そして、その翌年に想像を絶する現象に出会います。しかも彗星がらみです。

それは、シューメーカー・レビー第9彗星という長い名前の彗星による、木星への衝突でした。衝突前の彗星はすでに核がバラバラに崩壊しており、その各々からダストが放出されているようすを、ハッブル宇宙望遠鏡の画像で見ました。中野主一さんが、この衝突を予測し発表したのにも驚きましたが、それより驚いたのは、衝突後に木星の表面に黒い衝突痕が小さな望遠鏡でも見えたことでした。7月だったこともあり、ここニュージーランドは真冬で大変寒かったのを覚えています。フラットメイトだったキウイ(ニュージーランド人)の女性が、その後風邪を引いてしまったのも覚えています。

彗星が惑星に衝突するという事実に遭遇し、いつかは地球にも同じ状況がやって来るのだろうと感じ、その時から、私はいつでも死ぬ覚悟で生きていこうと心に決めました。

百武第二彗星、ヘール・ボップ彗星という肉眼等級彗星がやって来た時、私は機材を日本に残したままだったので、ろくな撮影もできずにいましたが、何十度という尾を引く素晴らしい百武の姿を肉眼で見ることはできました。しかし、(連載の第14回では、素敵な女性に首ったけだったからだと言い訳しましたが)実際には、永住権を申請中で、落ち着いて撮影どころではなかったですし、どちらの彗星も日本で見えるので・・・と冷めていました。

私が彗星を追いかけるようになったのは、やはり2004年に肉眼等級の彗星が2つも同時にやって来るとわかった時からです。既に2002年から500日先の撮影シュミレーションをしており、南半球が主戦場になることから、かなり気合が入りました。

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そして2004年4月末。月が沈んだ後の深夜に撮影を開始し、月を避けて暗夜を探しながら何とか2つの彗星を追い求めました。結果は大成功でしたが、フィルム撮影の限界を感じていました。結局リニア彗星の撮影では、10分も追尾しようものなら核が流れてしまい、メトカーフ法を実践する間もなく彗星核は地平線に消えていきました。 結局、どちらの彗星も最接近時は望遠レンズの世話にならずとも、標準か28ミリでないと尾を含む全体像を納めることができませんでした。

結局対角魚眼レンズがあれば、2つの彗星を1枚の写真に収めることもできたのですが、余りにも離れているために、凝ったことはやめました。昔から二兎を追う者は一兎をも得ず・・・という諺があるように、私は南半球の方が条件が良かったリニア彗星を中心に追いかけました。2004年5月19日早朝に撮影したこの写真が、今でも一番の思い出です。

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薄明が始まる中での一発勝負で撮ったものです。前日までの撮影で、50ミリ標準レンズでは尾がはみ出してしまうことがわかっていたので、この日は広角レンズでの撮影となりました。気温はマイナス3度。無事撮影できてほっとしました。

また同年末には、再度肉眼等級彗星のランデブーがあると踏んだ私は、マックホルツ彗星(C/2004 Q2)とリニア彗星(C/2003 K4)を追いかけましたが、リニアが7等級止まりだったため、残念ながら一年に2度の肉眼等級彗星のランデブーは空振りに終わりました。

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その後は、2006年のポイマンスキー彗星(C/2006 A1)、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P)を撮りました。核が分裂した73PのBとC核を一枚の写真に収めることができました。2つの彗星を同時に撮影できる幸運に3度も恵まれたことは、自分にとっても驚きでした。

そして同年10月にスワン彗星(C/2006 M4)が北半球で綺麗に撮影されているのを見て、南半球では見えないもどかしさに打ちひしがれていました。また、私はニュージーランドにいながら厄年の餌食になっており、交通事故やスポーツ中の怪我、会社との物別れなど、大変辛い3年間を過ごしていたのです。そんな酷い目に遭った厄年も残り1ヶ月という所で、私の厄を祓う救世主が現れました。

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この写真を撮影した2007年1月23日の夕空は、今から思えば大変輝かしく、私の心を清めてくれたのではないかと思えてなりません。その時に撮った写真をNASAが運営するSpaceWeather.comに投稿したところ、世界中から感謝のメールと写真の使用許可を求めるメールの嵐を体験しました。

私はスターウォッチングツアーという夜の仕事だけをしていたので、日中は毎日届く数十通のEメールへの返信作業に追われました。それでも毎日の撮影は朝方まで続き、一晩中彗星核が沈まない最高の状況の中で、天気が悪くなると休める・・・と逆に安心するくらいでした。その彗星こそが、世紀の大彗星となったマックノート彗星(C/2006 P1)です。

約50日間の追いかけでは、一番条件の良かった1月18日から20日を悪天候で失い、また2回ほど居眠り運転を経験し、ある時は子供を連れて出撃したものの、長男坊は朝までグッスリと車内で寝袋に包まり寝ていたり、車の鍵を荷物室に残したまま鍵を閉めてしまい出撃できなかったりと、多くの出来事に遭いました。しかし、その苦労も1月30日早朝に出現したオーロラとのコラボレーションを見て報われました。足腰がガクガクと震える経験でした。あれを一人で見たのは実にもったいなかった。読者の皆さんと一緒に撮影をしたかったです。

この彗星通過後は、いろいろな人から沢山のオファーをいただき、本当にホウキ星の如く、私の厄を掃いていってくれたと思いました。と思っていたら、光度が落ちたマックノート彗星と反対方向に進む彗星がマックノートのすぐ近くで発見されました。後日確かめてみたら、マックノート彗星をとらえた数多くの写真の中にこの新彗星が写っていました。その彗星はラヴジョイ彗星(C/2007 E2)。私もコメットハンターの仲間入りになれる所でした。しかし世の中はそれ程甘くはありません。それに、私がもし新彗星を発見してしまったら、私の名前である「米戸」が採用され、米戸彗星という名前になると思うのですが、もし音読み+英語発音をすると「コメット・コメット」になるではありませんか(笑)。

こんな嘘みたいな話がいつ現実になるやも知れませんが、その後のロニオス彗星(C/2007 F1)、タットル彗星(8P)を撮影したころから仕事が大変忙しくなり、去年は南半球だけの大きな彗星もなくて、撮影もご無沙汰しています。

次に南半球が主戦場になる彗星はいつごろやって来るのでしょうね。私的には数百年ぶりの大彗星になったマックノートで大変満足していますので、高望みはしませんが・・・。

さて次回は、スキー&ボードツアーでこちらに滑りに来られる方々向けにいろいろな情報をお知らせしたと思います。今年もリフトシーズンパスの販売がもう始まっていますよ!

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