【訃報】ニュートリノ天文学の基礎を確立しノーベル賞、小柴昌俊さん

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カミオカンデで超新星からのニュートリノを検出し、2002年にノーベル物理学賞を受賞した物理学者の小柴昌俊さんが11月12日に逝去した。享年94。

【2020年11月16日 東京大学

小柴昌俊(こしばまさとし)さんは1926年愛知県豊橋市生まれ。神奈川県横須賀市で少年期を過ごし、1945年に旧制第一高等学校に入学した。1948年に東京大学理学部物理学科に入学し、1951年に卒業すると同大学大学院に進学、物理学教室の山内恭彦研究室に所属した。

小柴昌俊さん
小柴昌俊さん。(提供:東京大学大学院理学系研究科・理学部広報委員会)

当初は理論物理学の研究を志したが、当時最先端だった、原子核乾板を用いて宇宙線の高エネルギー粒子を観測する実験の面白さに惹かれて素粒子実験に携わるようになり、1953年には朝永振一郎博士の推薦を得て、原子核乾板の実験で世界をリードしていた米・ロチェスター大学大学院に留学した。留学からわずか1年8か月で同大学院の博士号を取得し、米・シカゴ大学の研究員を務めた。1958年に帰国して東京大学原子核研究所の助教授に就任したが、翌1959年に再びシカゴ大学に戻り、原子核乾板を気球で成層圏に上げて宇宙線の観測を行う国際プロジェクトを指揮した。

1962年に再度帰国し、1963年に東京大学理学部助教授に就任した。1969年には岐阜県の神岡鉱山地下で宇宙線のミューオンを観測する実験を開始し、ここから後のカミオカンデ・スーパーカミオカンデ等につながる神岡での地下実験が始まった。1970年には東京大学教授となった。

1970年代になって世界各国で大規模な粒子加速器が建設されるようになると、西ドイツ(当時)のドイツ国立電子シンクロトロン研究所 (DESY) に建設された電子・陽電子衝突型加速器を使った国際共同実験「DASP」「JADE」に参加し、研究室の助手や大学院生をこれらのプロジェクトに送り込んだ。また、こうした国際共同プロジェクトの日本側の拠点として、東京大学理学部附属高エネルギー物理学実験施設、東京大学理学部付属素粒子物理学国際協力施設(現・東京大学素粒子物理国際研究センター)を設立し、施設長を歴任した。

1979年には、地下に水のタンクを造って光電子増倍管で覆い、大統一理論で予言される陽子崩壊を検出するという実験を提案し、この構想に基づく水チェレンコフ検出器「カミオカンデ」を神岡鉱山地下に建設して1983年から実験を開始した。1987年2月23日には、大マゼラン雲に出現した超新星「SN 1987A」から放出されたニュートリノがカミオカンデで11個検出された。この功績は、光(電磁波)以外の信号を受信することで天体の性質を解明するという全く新たな天文学の分野を切り拓くものとして高く評価され、米国のレイモンド・デイヴィス Jr.、リカルド・ジャコーニとともに2002年のノーベル物理学賞を受賞した。

その後、カミオカンデは水タンクの容量を3000tから50000tに増やした「スーパーカミオカンデ」へと引き継がれ、小柴さんの学生であった戸塚洋二さん(当時、東京大学宇宙線研究所付属神岡宇宙素粒子研究施設・施設長)が建設・観測を主導した。1998年には、大気中で宇宙線によって作られる「大気ニュートリノ」が別の種類のニュートリノに変化する「ニュートリノ振動」と呼ばれる現象がスーパーカミオカンデで確認された。これは、質量ゼロとされてきたニュートリノが実際には有限の質量を持つことの証拠であり、この結果を発表した梶田隆章さん(当時、東京大学宇宙線研究所助教授)は2015年のノーベル物理学賞を受賞した。梶田さんも小柴研究室の出身である。

1987年に東京大学を定年退官した小柴さんは、その後1997年まで東海大学教授を務め、2003年にはノーベル賞の賞金などを原資として財団法人平成基礎科学財団(2017年解散)を設立し、基礎科学の重要性を若い世代に啓蒙する活動に携わった。2005年には東京大学特別栄誉教授に就任した。

受賞

  • 1985年 ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章
  • 1987年 仁科記念賞
  • 1988年 文化功労者
  • 1989年 日本学士院賞
  • 1997年 文化勲章
  • 2000年 ウルフ賞
  • 2002年 ノーベル物理学賞
  • 2003年 ベンジャミンフランクリンメダル
  • 2003年 勲一等旭日大綬章

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