星のソムリエ、パリへ行く
第4回「シャルル・メシエ(前編)」

Writer: 廣瀬匠氏

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M1=かに星雲、M31=アンドロメダ座大銀河など数々の有名な天体についている"M"は「メシエ」のことで、これらの天体をカタログにまとめた天文学者の名前に由来する、というのは天文ファンならば誰でも知っていることだ。では、そのメシエが生涯の大半を過ごしたパリに、彼の足跡はどれだけ残っているだろうか。


北東の小村からパリへ

シャルル・メシエの肖像画

シャルル・メシエ(Charles Messier, 1730年6月26日 - 1817年4月12日)

1748年7月25日正午にメシエがバドンヴィエで見たであろう部分日食。ドイツなどで金環日食となったが、バドンヴィエでの最大食分は0.8。

1748年7月25日正午にメシエがバドンヴィエで見たであろう部分日食。ドイツなどで金環日食となったが、バドンヴィエでの最大食分は0.8。

コレージュ・ド・フランスの正門

コレージュ・ド・フランスの正門

シャルル・メシエは1730年にフランス北東部ロレーヌ地方のバドンヴィエ村で生まれた。家庭は比較的裕福だったようだが、11歳のときに大黒柱の父が他界してしまった。そんな中で13歳年上の兄がシャルルの世話をして、実務を中心とした教育を施し、最後は知人を通じてパリでの仕事を見つけ送り出してくれた。

メシエは幼い頃から星に興味があり、1744年の大彗星(注1)や1748年の日食が彼の観測好きを決定づけたと言われている。そんな彼が1751年、21歳にして斡旋された仕事がフランス海軍の天文官ジョゼフ=ニコラ・ドリールの助手だったというのは最高の巡り合わせだったと言えよう(兄は収入や将来性まで考えた上でこの仕事を選ばせたそうだが)。

全くの余談になるが、筆者も僥倖でパリに来ることになり、しかも居候させてくれる教授夫妻を見つけているので、何となくメシエに親近感を覚える。現代のパリは住宅事情が非常に厳しいが、18世紀にも当時なりの大変さがあっただろう。そういった心配を一切する必要がなく、その上、常に父親と母親代わりになってくれる人物が近くにいたのはメシエにとって心強かったに違いない。

オテル・ド・クリュニー観測所

オテル・ド・クリュニー、現フランス国立中世美術館

オテル・ド・クリュニー、現フランス国立中世美術館

この塔の上にかつては観測所があった

この塔の上にかつては観測所があった。

塔に刻まれた日時計

塔に刻まれた日時計。西暦1674年の数字が見える。

『貴婦人と一角獣』の「視覚」

『貴婦人と一角獣』の「視覚」

「知らざるという無知、そして知るための手段を持たざるという貧しさを啓蒙しなければならない」

ドリールは1724年にロンドンを訪れ、アイザック・ニュートンとエドモンド・ハレーに面会したことがある。彼らに刺激を受けて、天体力学とそれを確かめるための観測の重要性を強く意識していたようだ。1747年にロシアからパリに戻って間もないころに、コレージュから徒歩5分のオテル・ド・クリュニーに望遠鏡を備えた観測所をこしらえている。

最初はコレージュ・ド・フランスの一室で地図を書き写す作業に従事していたメシエだが、ドリールに才能を認められて天文学の仕事も手伝うようになった。記録に残っている彼の最古の観測は、1753年5月6日に起こった水星の太陽面通過だ。1754年に海軍の事務官として安定した地位をもらい、後にはドリールの仕事を受け継いだメシエは、実に半世紀以上にわたってこのオテル・ド・クリュニーの観測所で望遠鏡をのぞき続けることになる。

ちなみに、オテル・ド・クリュニーは15世紀の建築物で、主にパリへ出張する修道士の宿泊所として使われていた。敷地の地下からはローマ帝国時代のテルマエ(公衆浴場)が発掘されていることから、古くから栄えていたことがうかがえる。コレージュ・ド・フランスやオテル・ド・クリュニーを含む一帯は中世以来教育機関が集中し「カルチエ・ラタン(ラテン語を話す者の街)」と呼ばれる学生街として一層発展していた。現代ではパリ中心部の一角として観光客も集まり夜通し明るいが、メシエの時代には電灯もなく観測に支障をきたさなかったのであろう。

1843年以降、オテル・ド・クリュニーの建物はフランス国立中世美術館として使われている。残念ながら塔の上にあった観測所は撤去されており、美術館の内外にその歴史を語るものは一切存在しないが、シャルル・メシエとの関わりが一番深い場所と言えばここをおいて他にはあるまい。15世紀に建てられた建物自体も中世を立派に物語る展示物である。メシエが長年観測を続け、一時は家族で住んでいたこともある空間として思いを馳せてみるのも面白いかもしれない。

中世美術館の名前をご存じなくても、『貴婦人と一角獣』が展示されている場所と言えばピンと来る方も多いはずだ。「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」の五感を題材にしたタペストリーに、もっとも有名で謎めいている「我が唯一の望みに」というタイトルのタペストリーを加えた6枚組の作品である。五感のうちもっぱら視覚ばかりを駆使したメシエだが、そんな彼が望み追い求めたものは何であっただろうか。

ハレー彗星探しと「邪魔者」第1号

ところで、メートル法には十進法という大原則がある。1mの100分の1が1cm、1gの1000倍が1kgというように、全ての単位は十の累乗になっているのだ。12インチで1フィート(長さの単位)、16オンスで1ポンド(重さの単位)などといった非メートル法の単位系と比べてすっきりしている。

1757年、ドリールはメシエに新たなミッションを与えた。1682年に出現し、ハレーが軌道を計算した彗星の再発見である。ハレーによれば彗星の公転周期は76年で、1682年の次に太陽へ接近するのは他の惑星の重力を考慮して1757年であった。ハレー自身は1742年にこの世を去っており、彼の遺志を引き継ぐようにして多くの天文学者が彗星の回帰をとらえようとしていたのだ。ハレーに直接訓示を受けたことがあるドリールはなおのこと強く意識していただろう。

メシエはドリールの計算結果を忠実に信じて捜索を続けたが、かなりの長丁場を強いられることになる。肝心のドリールの計算が間違っていたからだ。1758年8月14日になって、ようやくメシエはぎょしゃ座の足下に1つの彗星を発見する。実はこの彗星はハレーの彗星とは関係ない上に、メシエより先(5月26日)に同じフランスのド・ラ・ニュが見つけていたのだが、情報網の発達していない時代のこと、メシエには知るよしもなかった。だが、何も知らずに彗星の動きを追い続けたことが、ある意味では幸いだったと言えるかもしれない。

メシエがM1を発見した当時の星図

メシエがM1を発見した当時の星図

1758年8月28日、おうし座の角の間へ向かっていた彗星を観測したメシエは、たまたま南側の角の先端にあたるおうし座ζ星に望遠鏡を向け、そこに自分が追跡していた彗星とよく似た姿の天体があることに気がついた。メシエの観測をまとめたドリールの報告書には「新しい彗星」という言葉があり、どうやら最初は2人とも彗星を見つけたと考えていたようだ。しかし9月10日から12日にかけて周囲の恒星との位置関係を調べた結果、新天体(注2)が動いていないことを突き止めたメシエは、その位置を正確に記録している。これこそが、後にメシエがまとめた星雲星団カタログの天体第1号、M1(かに星雲・超新星残骸)だ。

その後も地道にハレーの彗星を探し続けたメシエだが、ついにドリールの計算結果を疑うようになり、捜索範囲を変えたところ、1759年1月21日になってとうとう目当ての彗星を発見した。しかし既に、前年のクリスマスに彗星を見つけたドイツのヨハン・ゲオルク・パリッチュに先を越されていたのである。おまけに、自分の間違いを認めたがらなかったドリールはメシエの報告を4月1日になるまで公表しなかった。発表した本人とそれを受け取った人々がどこまでエイプリルフールを意識していたかは不明だが、メシエの独立発見が正統に受け入れられなかったのは確かだ。

天文学者としての独り立ち

ハレー彗星の再発見を巡るいざこざは、メシエとドリールの間に確執を生んだかもしれない。メシエは1760年1月8日に彗星(C/1760 A1)を独立発見しているが、これもドリールに発表を拒まれたという説がある。しかし経緯はどうであれ、最終的には70歳を超えていたドリールが一歩退き、30歳のメシエを一人前と認めたようだ。同年9月11日、彗星を探していたメシエはまたも彗星状天体、後のM2(球状星団)を見つけているが、M1のときとは違ってメシエ自ら科学アカデミーにその発見を報告している。

紛らわしい天体に再び振り回されたメシエはこのとき思い立って過去の観測記録を調べ、1746年にイタリア出身のマラルディがパリで同じ天体を発見していたことを知った。このときメシエはどう思っただろうか。1764年5月3日に3個目の彗星状天体を見つけたとき、彼はすぐさまカタログ作りに取りかかることになる。

一方、メシエを観測天文学者として育てて巣立たせたドリールは、生涯最後の大仕事となる、1761年6月6日の金星の太陽面通過の世界的観測に取り組んだ。地球上の離れた地点で同時に金星の位置を観測することで、地球-太陽間の距離が精密に計算できる。これまたハレーが夢見て生涯の間に果たせなかった観測プロジェクトだ。その重要性をハレーに直接説かれたことがあり、また極東へ自ら赴いた経験があるドリールほどその推進役にふさわしい人物はいなかっただろう。彼は太陽面通過が観測出来る場所を描いた世界地図を制作し、国王ルイ15世をはじめ各方面に協力を要請した。

政治的情勢のためドリールの理想通りにことは運ばなかったが(七年戦争でよりによってイギリスとフランスが対立していた)、シベリアやインドに天文学者を派遣するなど、前代未聞の規模で観測が実施された。メシエはオテル・ド・クリュニー観測所で金星を観測している。記録に残る彼の初観測、あの7年前の水星太陽面通過も、このための予行演習だったのだ。ドリールは1765年には完全に引退して観測所をメシエに譲り、次の金星太陽面通過が起こる前年の1768年にこの世を去った。

メシエがパリに残したものは

メシエ通りの端から反対側の端を撮影

メシエ通りの端から反対側の端を撮影

メシエは1751年にパリへ移り、1817年に86歳で没するまでの生涯をほぼこの地で過ごしたが、彼の業績を称える記念碑の類はパリに存在しない。一応、多くの歴史上の人物がそうであるように、パリには彼の名前を冠した通りがある。しかし、その長さはたったの71m。おまけに片側は古い刑務所でありお世辞にも良い雰囲気とは言えない。もちろん人気と通りの長さが比例するわけではないのだろうが、メシエの存在感の薄さを象徴するかのような事実だ。

確かにメシエの知名度はフランス人の間でも決して高いとは言えず、科学史を専攻している学生に話を聞いてみても彼の名前を知らなかったほどだ。とはいえ、彼は一部の天文愛好家しか知らないようなカタログを残してひっそりパリから消えただけの人物ではない。18世紀後半の当時、メシエはそれなりの存在感があり、多くのパリ市民が彼の名前を耳にする機会があったはずだ。

実はパリにはメシエにゆかりのある道路がもう一本ある。その名も「彗星通り(Rue de la comete)」だ。

中編に続く


注1:C/1743 X1、1744年の大彗星、クリンケンベルグ彗星、シェゾー彗星(Comet de Cheseaux)などとも呼ばれる。記録によればその明るさは金星に匹敵し、2007年のマクノート彗星のように大きく広がった尾を見せたようだ。

注2:メシエより先に、イギリスの医師ジョン・ベヴィスが1731年にM1を発見して記録を残している。メシエはこのことを1771年まで知らなかったようだ。

参考文献

  • Philippe de la Cotardière, "Guide de l'astronomie en France", BELIN
  • Jacques Hillairet, "Dictionnaire historique des rues de Paris", Minuit
  • Dumont, Simone, and Monique Gros. "The Important Role of the Two French Astronomers J.-N. Delisle and J.-J. Lalande in the Choice of Observing Places during the Transits of Venus in 1761 and 1769." Journal of Astronomical Data 19 (2013): 131-144.
  • SEDS The Messier Catalogue: http://messier.seds.org/
  • ATLAS COELESTIS: http://www.atlascoelestis.com/
  • フランス国立中世美術館: http://www.musee-moyenage.fr/

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《廣瀬匠氏プロフィール》

廣瀬 匠 静岡出身。夜空を眺めだしたのはヘール・ボップ彗星が発見されたころ。天文普及に関心を持ちアストロアーツに勤務、ウェブニュース編集などを担当。さらに歴史に目を向け、京都産業大学と京都大学でインド天文学史を学ぶ。同時期に星空案内人(通称「星のソムリエ」)の資格を取得。2014年1月、フランス・パリ第7大学へ。著書に『天文の世界史』など。

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