星のソムリエ、パリへ行く
第9回「ビュフォンを訪ねて」

Writer: 廣瀬匠氏

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パリに来る以前、天文学の歴史を本格的に学ぼうと決めたときよりずっと前から尊敬しているフランスの学者がいる。ジョルジュ=ルイ・ルクレール、通称ビュフォン伯(1707-1788年)だ。彼が残した功績が大きいことはパリにいても実感できるが、その名前からもわかるように元々は地方の町に拠点を置く貴族でもあった。彼の出身地モンバールと領地ビュフォンはフランス東部のブルゴーニュ地方、パリから電車で1〜2時間のところにある。


究極の何でも屋

ビュフォンの銅像

霧の中、モンバール駅の前に立つビュフォンの銅像。手には『博物誌(Histoire Naturelle)』の原稿

午前10時前、まだ夜が明けてから1時間ほどしか経っておらず、モンバール駅には濃い霧が立ちこめていた。その駅を出ると、広場に置かれた銅像が白い空間を背景に一際目立っていた。現在では人口5000人強のこの町で生まれた地元のヒーロー、ビュフォンだ。

ビュフォンの肖像

40代後半のビュフォンの肖像(フランソワ=ユベール・ドローワ画)。ビュフォン博物館にて

一般向け科学書

ビュフォンにインスパイアされた一般向け科学書の数々。中央に見える“Astronomie populaire(大衆の天文学)”はカミーユ・フラマリオン(1842-1925年)が書いた天文普及書の名著

ビュフォンについて一言で表すならば、当時のあらゆる科学に手を出した万能の学者である。数学では「ビュフォンの針」という確率論と幾何学の組み合わせに対して微積分で解く問題を考案したことで知られ、工学では様々な木材の性質を調べたり製鉄技術を研究したりしている。生物学ではあらゆる動物を研究して進化論の一歩手前まで近づいていたと言われ、そして天文学では太陽系の起源を初めて「実験」で検証したという実績がある。全36巻(+ビュフォン死後に8巻)の百科事典『一般と個別の自然誌』(通称『博物誌』)はあらゆる哺乳類と鳥類、鉱物、地質学、そして太陽系の起源と歴史に関する考察まで網羅した大作で、18世紀のフランスでベストセラーとなった。

サンチュルス教会

博物館やモンバールの町を見下ろす位置にあるサンチュルス教会。ビュフォンはこの教会に隣接する礼拝堂で眠っている

丘の中腹にあるビュフォン博物館の中は、何でも屋を記念するにふさわしく、あらゆる科学分野に関する展示が所狭しと並べられていた。天文学のスペースもしっかりと設けられている。ビュフォンは同時代のシャルル・メシエなどのように天体観測の分野で活躍したわけではないが、何にでも興味を持ち、そして自分が得た知見を積極的に広めようとする精神は後世のフランスの天文分野にも受け継がれているということが展示から伝わってくる。

地球誕生のシミュレーション

17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおける天文学の分野ではガリレオらが主張した地動説が受け入れられニュートンの万有引力の法則などが広まるなど着々と近代化が進んでいた。ところが意外にも、宇宙の誕生に関しては聖書の解釈を元に「紀元前4004年」という説が広まっており、これに対抗するような(今日の我々から見て)科学的な理論は存在しなかった。何しろニュートンですら世界の起源に関しては聖書を拠り所にした年代を支持していたのである。

鉄球とアンモナイトの化石

鉄球とアンモナイトの化石。ビュフォンは地質学にも通じていて、地層や化石も地球の古さを示す証拠だと考えていた

彗星が太陽に衝突して惑星が生まれる様子を描いたイラスト

『博物誌』の中から、彗星が太陽に衝突して惑星が生まれる様子を神々しく描いたイラスト。しかしこの説は旧約聖書の創世記(下に敷かれている)に取って代わることはできなかった

モンバール城の塔

丘の上に立つモンバール城の塔。中世に建設された城で、後にビュフォンが買い上げた

ビュフォンが『博物誌』を書いた書斎

ビュフォンが『博物誌』を書いた書斎は城址公園の片隅にある。広大な敷地を所有していながらわざわざこんなに狭い所に籠もっていたというのが興味深い

それに対してビュフォンは1778年、聖書を使わずに実験によって地球の年代を考察した最初の有名人として名を残している。彼はまず、太陽に彗星が衝突したときに飛び散った破片から地球が誕生したと考えた。まるで現代のジャイアント・インパクト説(地球に小天体が衝突して月が誕生したとする説)に通じるところがある。もちろん彗星にそんな威力はないし太陽もほとんどガスでできているので誤った前提ではあるのだが、そうした知見が得られる前だということを忘れてはいけない。それに当時はメシエらによって次々と彗星が発見され、1773年にはラランドが彗星が地球に衝突する可能性をほのめかして大騒ぎになった(→第5回参照)ばかりだというのも背景にありそうだ。

この仮説に基づけば、地球は最初はどろどろの状態で徐々に冷えて現在に至ったことになる。ビュフォンは赤熱した鉄などの球体が冷却するまでの時間を測定し、それを地球の体積に当てはめることで6万年〜7万5000年という年代を得た。もちろん聖書の年代とは全く異なる結論なので、当時この数字は教会のみならずフランス王立アカデミーからも受け入れられなかった。

このエピソードを知ったとき私はビュフォンのことを面白い科学者だなあと感じる一方、あまり実験の詳細について学んだことはなく、漠然とビュフォンが鉄球に温度計を当てているイメージしかなかった。しかしビュフォン博物館にはローザンヌという人物が1788年に書いた伝記『ビュフォン伯の私生活』からの驚くべき引用が掲示されていた。

「惑星が生成された年代と地球の冷却期間を知るために、彼は4、5人の柔肌の美女を雇った。彼があらゆる材質とあらゆる密度の球を何個も赤く熱すると、彼女達のデリケートな手で順番に触ってもらった。そして彼は温度を勘定し、冷却期間を計算するのだった」

今でもビュフォンは尊敬すべき学者だが、多少イメージが変わってしまった。ちなみに教会を含め、この測定方法自体を理由にしてビュフォンの数値に疑問を投げかけた、という記録は見たことがない。

ビュフォンの精錬所

ブルゴーニュ運河に沿って走る自転車道

ブルゴーニュ運河に沿って走る自転車道。印象派の絵を思い起こさせる景色が続く

ビュフォンが活躍していたころに建設が始まったブルゴーニュ運河が、モンバールの町の中を流れている。この運河に沿って西へ約10kmのところにある集落の名前は「ビュフォン」。ここはかつてビュフォンに与えられた領地で、もちろん彼の「ビュフォン伯」という通称もここから来ている。

1768年から1772年にかけて、ビュフォンはこの地に大規模な鉄精錬所を建設した。運河の水を引き入れて水車を回し、炉に風を送り込むふいごや鉄を鍛えるハンマーを動かし製鉄のほぼ全行程を集約させた施設だ。とても金持ちが道楽で作るレベルのものではない。

フォントネー修道院の回廊

フォントネー修道院の回廊。地球の誕生を巡ってビュフォンと教会の間にはちょっとした因縁があるが、彼が活躍した時代にはこの修道院は既に廃れてしまっていたらしい

フォントネー修道院の製鉄所

フォントネー修道院の製鉄所。水車を動力とするなど、ビュフォンの精錬所にもつながる要素があるが、ビュフォンがどの程度ここを知っていたかは不明

ビュフォンの精錬所

ビュフォンの精錬所。美しい流線型の構造は水流を二手に分けて複数の水車を回す役割を果たした

ビュフォンが精錬所を建設した背景には、フランス国王から鉄鉱石に関して研究するよう依頼されて長年研究を続けていたこともあるが、元々この地方で製鉄がさかんだったこともあるらしい。たとえば、モンバール近郊にある世界遺産「フォントネー修道院」(12世紀〜)には、修道僧たちが使った鍛冶場が残っている。一方、こうした製鉄技術への関心がビュフォンによる地球誕生シミュレーションのヒントになったのだろうということもうかがえる。潤沢に資金が使える立場だったとは言え、自分の興味をここまで追求できたというのはただひたすらうらやましい。


ビュフォンの故郷を訪ね自転車で50km走り回り、十分堪能すると私は夜にパリへ戻る電車に乗った(フランスの長距離電車はありがたいことに自転車をそのまま乗せさせてくれるものが多い)。電車ではわずか2時間だが、馬車だと数日がかりだろう。ビュフォンは毎年、そのように故郷のモンバールとパリを往復していた。彼はパリでも重要な仕事を任されていたからだ。


モンバール・ビュフォンでの取材に加えて、パリにおけるビュフォンの足跡を追いかけた内容をまとめた記事を星ナビ2017年1月号「星の都の物語」に掲載します。

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《廣瀬匠氏プロフィール》

廣瀬 匠 静岡出身。夜空を眺めだしたのはヘール・ボップ彗星が発見されたころ。天文普及に関心を持ちアストロアーツに勤務、ウェブニュース編集などを担当。さらに歴史に目を向け、京都産業大学と京都大学でインド天文学史を学ぶ。同時期に星空案内人(通称「星のソムリエ」)の資格を取得。2014年1月、フランス・パリ第7大学へ。

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