星のソムリエ、パリへ行く
第6回「シャルル・メシエ(後編)」

Writer: 廣瀬匠氏

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中編からの続き)


観測のメシエと理論のラランド

通称「メシエ座」の領域

通称「メシエ座」は、現在のカシオペヤ座の領域のうち天の川から外れた北極星に近い領域に設定されていた(ステラナビゲータ10で作成)

1773年の彗星パニックを引き起こしたラランドはメシエと同時期にドリールの門下に入った人物で、メシエが観測者としての地位を受け継いだのに対して、理論天文学者としての才能を発揮して活躍している。彼が書いた教科書『天文学(Astronomie)』はオランダ語訳され、日本にも伝わって江戸時代後期の天文学者たちに広く読まれるなど、世界的な天文学者と言ってもいい人物である。

彗星を見つけることはできても軌道を計算できず、数理天文学の分野では何も残すことができなかったメシエと違い、ラランドは天体力学のエキスパートとして出世し、数多くの弟子を残すなど後世に影響を与えた。しかしメシエが海外に出張したときにクリュニー観測所でラランドが代わりに定期観測の業務を行うなど、二人は非常に接点が多い。ラランドは1775年に「収穫の見張り人」という星座を制定したのだが、これはラテン語で“Custos Messium”である。メシエ(Messier)の名前に引っかけているのは明らかで、フランスではずばり「メシエ座」と呼ばれていたそうだ。このほかにもラランドはいくつか星座を創設したが、いずれも現在は使われておらず、かろうじて「しぶんぎ座」が三大流星群の一つに名を残すのみである。

そんなラランドの教え子の一人が、メシエの後半生、そしてメシエカタログの後半に深く関わることになる。

もう一人の観測者

メシャン

メシエカタログへの最大の協力者メシャン(Pierre François André Méchain、1744年〜1804年)(出典:Wikipedia

メシエより14歳年下のピエール・メシャンは、貧乏で学業が続けられず家庭教師をして生計を立てていたときにラランドに才能を認められ、海軍での測量や計算などの仕事を斡旋され、1774年にオテル・ド・クリュニーにやってきた。このころにメシエと知り合ったメシャンは、やがて観測者としても頭角を現す。なお、メシャンは「メシエの助手」と言われることが多いが、常にオテル・ド・クリュニーにいたメシエと違って、メシャンは少し離れたところにあるパリ王立天文台を中心にいくつかの拠点で観測しており、メシエのプロジェクトとは独立していたようだ。

妻子を亡くしてから新天体の発見ペースが落ちていた(1772年〜1778年に発見した彗星は1つ、メシエカタログの追加はM50〜M55の6つのみ)メシエだが、1779年は復活の年となる。1月にボーデ彗星(C/1779 A1)を独立発見すると、追跡中にこと座の球状星団M56と環状星雲M57を発見。4月には同彗星がおとめ座に移ったことで、おとめ座銀河団の天体であるM58〜M61をまとめて見つけた(いくつかは他の観測者が先に発見している)。

ところで最近の研究によれば、このときメシエが作成した星図には小惑星パラスと思われる星が描かれているのだそうだ。ピアッツィが初めて小惑星ケレス(現在は準惑星)を発見したのは1801年で、パラスが見つかったのはその翌年である。天王星も見つかる前だったので、仮にメシエがパラスの動きに気づいていたならば歴史が変わっていたかもしれない。

1779年6月にはメシャンがM63を発見し、本格的に新天体捜索者として名乗りを上げる。1781年6月には彗星(C/1781 M1)も発見。1780年代に見つかった13個の彗星のうち、メシエが2つ、メシャンが5つを単独発見し、さらに1つ(C/1785 A1)は二人が同じ夜に独立発見した。メシャンは彗星ハンターとしては手強いライバルであり、さらにメシエに欠けていた天文計算の技能も持ち合わせていて出世も早かったのだが、二人は仲が良く観測結果も絶えずやり取りしており、星雲星団カタログをさらに充実させるために協力しあう。メシャンがメシエに先駆けて発見したメシエ天体は累計28個(註:のちにメシャンが発見報告を撤回したM102と、公式にカタログとして出版されることはなかったM104〜M109を含む。なお 109はメシャンが発見した天体とそれを受けてメシエが観測した天体が別だったらしく、一般にM109とされているのは後者である銀河NGC 3992である)にもおよぶ。

MからNGCへ

1781年版メシエカタログの第一ページ

1781年版メシエカタログの第一ページ(出典:フランス国立図書館オンラインアーカイブ

M72〜M76

M72〜M76。全ての天体にメシエ自身の観測記録と、メシエの観測前に発見されていた場合はその詳細が記載されている。カタログの後半にはメシャン(Méchain)の名前が頻繁に登場する(出典:フランス国立図書館オンラインアーカイブ

1780年から1781年にかけて、メシエとメシャンは春の銀河(註:もちろん当時はまだ系外銀河の存在は知られていなかったので、メシエらはこれをただの星雲として扱っている)を中心に徹底的な捜索を行った。こうしてメシエのカタログに記録された天体は初版を出版したときの2倍を超えることになる。1780年、メシエはフランスで発行されていた天文の年鑑である『時の知識(Connoissance des Temps)』(註:年鑑は毎年3年先のものを発行していたので、1780年に発行されたのは「1783年版」であり、1781年にメシエカタログが掲載されたのは「1784年版」である)に、M70までの天体を記載した初版の補遺を掲載した。翌年5月にはM103までを載せた、出版されたものとしては最後となるメシエカタログを同誌に発表する。

しかし1781年に最も話題となったのは、イギリスでウィリアム・ハーシェルが天王星を発見したことであろう。3月13日にハーシェルが新天体を発見した知らせを4月に受けてメシエはただちに観測している。ハーシェルが見つけたのが彗星ではなく土星の外を回る新惑星だとわかるのは5月以降のことだが、軌道を計算するために使われた観測データの中にはメシエのものもあった。

1781年を境に、メシエは彗星の観測は続けるものの、星雲星団を新たに見つけることはなかった(註:メシャンが発見してメシエに報告した天体が後世になってからM104〜M109と呼ばれるようになった。最後のM110は、メシエが観測した記録が残っているので20世紀になって付け加えられている)。理由の一つは、この年11月に地下8mの貯氷庫に誤って落下する事故があり、1年間寝たきりになった上に後遺症が残ったことかもしれないが、ハーシェルという強力なライバルの出現で意欲を失ったからではないかという説もある。ハーシェルは優れた望遠鏡製作者でもあり、彼が使っている機材はとてもメシエが太刀打ちできるものではなかったのだ。

ハーシェルは1781年12月に友人からメシエカタログの存在を知らされた(註:このとき、M70までのメシエカタログが掲載された1780年発行の『時の知識』も受け取っている)。それまでハーシェルはもっぱら二重星の観測に専念していたのだが、どうやらこれが転機となって、1782年からは星雲星団を探すために全天を望遠鏡で捜索するようになり、1802年までの20年間に2500個もの新しい星雲や星団を発見している。メシエの意志はハーシェルに受け継がれたと言えるだろう。

ウィリアムの息子ジョン・ハーシェルは父のリストを引き継ぎ、さらに観測を重ね、1864年にジェネラル・カタログ(GC)を発表した。これを1888年にジョン・ドレイヤーが拡張したのが、7840個の星雲星団を集録したニュー・ジェネラル・カタログ(NGC)である。

革命の影響

1780年代後半になると、ウィリアムの妹カロライン・ハーシェルが彗星ハンターとして台頭し、メシエとメシャンを上回るペースで発見を重ねている。また、フランスではこの時期社会情勢が悪くなっており、1789年7月14日のバスティーユ監獄襲撃でフランス革命が始まった。これが天文学者たちの活動にいくらか影を落としたのは確かである。特にルイ16世がギロチンで処刑された恐怖政治真っ直中の1794年には、前年にメシエが発見した彗星(C/1793 S2)の軌道を彼のために計算するなど親交のあった数学者ド・サロンが処刑されるなど、油断ならない状況だった。

メシエの場合、収入源を断たれてしまい難儀していた時期もあったらしい。その上高齢から来る視力の衰えもあった。彼が最後に成し遂げた単独発見は、67歳で見つけた彗星C/1798 G1で、19世紀最初の年に71歳で独立発見したポン彗星(C/1801 N1)が最後のめぼしい業績である。そんなメシエの晩年を見てみると、年老いたが故の頑迷さとも、困窮故の必死さともつかない行動が目立つ。

例えば、1798年に発行された年鑑『時の知識』の中では、「ハーシェルの星雲星団カタログは暗すぎる天体まで網羅しているので、彗星捜索者が使うような小さな望遠鏡では見えないものばかりで実用的とは言えない。私はこれまで彗星と紛らわしい天体を区別するためにカタログを編纂してきたし、ハーシェルとは方針が異なるのだ」という趣旨の主張をしている。中編でも見たように若い頃は星雲星団のカタログ作りそれ自体を目的としていたはずだし、彼が出版したカタログの序文にははっきりと「過去の天文学者たちが不完全にしか研究してこなかった星雲のカタログをまとめた」と宣言されている。メシエカタログは今でも「彗星と紛らわしい天体を集めたリスト」と言われることが多いが、それはメシエが自分の存在をアピールするための後付けだったようにも見えてしまう。

メシエが最後に輝いたのは、1806年にナポレオンからレジオンドヌール勲章(註:ナポレオンが1802年に創設した、各分野での功労者に贈られる勲章で、今でもフランスでは最高級の栄誉とされている)を受け取ったときだろう。しかし、これに気をよくしたのか、あるいはさらなる援助を引き出したいという気持ちがあったのだろうか、メシエは、1769年に自分が発見した大彗星を同年に誕生したナポレオンと結びつけて紹介する小冊子を出版したのである。それによってナポレオンが待遇を変えた形跡もないし、周囲の科学者からはひんしゅくを買うだけであった。19世紀イギリスの天文学者ウィリアム・ヘンリー・スミスは「正統な天文学者が公に彗星を占星術に結びつけた最後の事例」と皮肉っている。

メシエが活躍した1758年から1801年までの間に見つかった彗星
合計45個、うちメシエの発見は13個、独立発見は7個
名称符号発見日メシエの貢献(註)発見者(発見順)
ド・ラ・ニュ彗星 C/1758 K11758/ 5/26独立ド・ラ・ニュ、メシエ
ハレー(再発見) 1P/1758 Y11758/12/25独立パリッチュ、メシエ
1760年の大彗星 C/1760 A11760/ 1/ 7独立シュバリエ、他多数(メシエ含む)
メシエ彗星 C/1760 B11760/ 1/26発見メシエ
クリンケンベルグ彗星 C/1762 K11762/ 5/17 クリンケンベルグ
メシエ彗星 C/1763 S11763/ 9/28発見メシエ
メシエ彗星 C/1764 A11764/ 1/ 3発見メシエ
メシエ彗星 C/1766 E11766/ 5/ 8発見メシエ
ヘルフェンツリーダー彗星 D/1766 G11766/ 4/ 8独立ヘルフェンツリーダー、メシエ
メシエ彗星 C/1769 P11769/ 8/ 8発見メシエ
レクセル彗星 D/1770 L11770/ 6/14発見メシエ
1771年の大彗星 C/1771 A11771/ 1/10独立多数(メシエ含む)
メシエ彗星 C/1771 G11771/ 4/ 1発見メシエ
ビエラ彗星 3D/1772 E11772/ 3/ 8 モンテーニュ
メシエ彗星 C/1773 T11773/10/12発見メシエ
モンテーニュ彗星 C/1774 P11774/ 8/11 モンテーニュ
ボーデ彗星 C/1779 A11779/ 1/ 6独立ボーデ、メシエ
モンテーニュ・オルバース彗星 C/1780 U11780/11/29 モンテーニュ、オルバース
メシエ彗星 C/1780 U21780/10/27発見メシエ
メシャン彗星 C/1781 M11781/ 6/28 メシャン
メシャン彗星 C/1781 T11781/10/ 9 メシャン
ピゴット・LINEAR・コワルスキ彗星226P/1783 W11783/11/19 ピゴット
1784年の大彗星 C/1783 X11784/ 1/24 カッシーニなど多数
メシエ・メシャン彗星 C/1785 A11785/ 1/ 7発見メシエ、メシャン
メシャン彗星 C/1785 E11785/ 3/11 メシャン
エンケ彗星 2P/1786 B11786/ 1/17 メシャン
ハーシェル彗星 C/1786 P11786/ 8/ 1 カロライン・ハーシェル
メシャン彗星 C/1787 G11787/ 4/10 メシャン
メシエ彗星 C/1788 W11788/11/25発見メシエ
ハーシェル・リゴレー彗星 35P/1788 Y11788/12/21 カロライン・ハーシェル
ハーシェル彗星 C/1790 A11790/ 1/ 7 カロライン・ハーシェル
タットル彗星 8P/1790 A21790/ 1/ 9 メシャン
ハーシェル彗星 C/1790 H11790/ 4/17 カロライン・ハーシェル
ハーシェル彗星 C/1791 X11791/12/15 カロライン・ハーシェル
グレゴリー彗星 C/1793 A11793/ 1/10 グレゴリー、メシャン
ペルニ彗星 C/1793 S11793/ 9/24 ペルニ
メシエ彗星 C/1793 S21793/ 9/27発見メシエ
エンケ彗星 2P/1795 V11795/11/ 7 カロライン・ハーシェル
オルバース彗星 C/1796 F11796/ 3/31 オルバース
ブバール・ハーシェル彗星 C/1797 P11797/ 8/14 ブバール
メシエ彗星 C/1798 G11798/ 4/12発見メシエ
ブバール彗星 C/1798 X11798/12/ 6 ブバール
メシャン彗星 C/1799 P11799/ 8/ 7 メシャン
メシャン彗星 C/1799 Y11799/12/26 メシャン
ポン彗星 C/1801 N11801/ 7/12独立ポン、メシエ、メシャン、ブバール

註:発見…メシエが第一発見者独立…メシエが独立発見

参考:http://messier.seds.org/xtra/history/44comets.htmlhttp://messier.seds.org/xtra/history/50comets.html

メシエを探す

メシエの墓

メシエの墓(中央)。周辺にあるものと比べると、最も地味な部類に入る

メシエの墓碑

メシエの墓碑に刻まれているのはこれだけだ

1817年4月11日に永眠したメシエは14日にペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。ここはフランスの歴史に名を残した数々の有名人が眠るパリ最大の墓地である。天文学史に名を残すメシエの墓所にふさわしい…と言いたいところだが、いかんせん周りが巨星だらけなので存在感がかすんでしまう。埋葬されている有名人が数十人リストアップされている案内板や地図を見ても、その中にメシエの名前はない。仕方ないので英語版Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Messier)の案内に従った。「第11区画にあるショパンの墓が目印。そこからまっすぐ北、少しだけ西にある」。まるで星座と恒星を目印に暗いメシエ天体を探しているかのようだ。

ようやく見つけたその墓は、驚くほどシンプルだった。何の変哲も無い石棺に石灰岩の墓碑。そこに刻まれているのは彼の姓名“CHARLES MESSIER”だけである。業績はおろか生没年さえないとは。長い年月の間に風化したのだとしても、全く手入れがなされていないということではないか。私一人がメシエの墓の前にたたずんでいる間に、ショパンの墓には何十人もの人たちが訪れていく。メシエがいかに天文ファンにとって大きな存在であっても、華やかなパリの歴史にあってはマイナーな存在であることを思い知らされる。

メシエの墓参りをしたその日の夜にメシエ天体を探してみたが、肉眼ではM31(アンドロメダ座大銀河)やM42(オリオン座大星雲)は見えず、M45(プレアデス星団、すばる)でさえも探すのに難儀した。パリという街は、メシエの存在を感じるには明るすぎる。


参考文献

関連リンク

星のソムリエ、パリへ行く(廣瀬匠氏) バックナンバー

《廣瀬匠氏プロフィール》

廣瀬 匠 静岡出身。夜空を眺めだしたのはヘール・ボップ彗星が発見されたころ。天文普及に関心を持ちアストロアーツに勤務、ウェブニュース編集などを担当。さらに歴史に目を向け、京都産業大学と京都大学でインド天文学史を学ぶ。同時期に星空案内人(通称「星のソムリエ」)の資格を取得。2014年1月、フランス・パリ第7大学へ。著書に『天文の世界史』など。

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