天文雑誌 星ナビ 連載中 「新天体発見情報」 中野主一

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2006年3月4日発売「星ナビ」4月号に掲載

マックノート周期彗星(2005 K3)

2005年6月9日の夜は、10日02時30分にオフィスに出向いてきました。この時期、その少し前にハワイから布施哲治氏が出向いて来ていました。その疲れのせいか、その後も身体の調子がなかなか戻らず、えんえん夜中まで寝過ごし深夜を過ぎてオフィスに出向くという状態が、6月上旬以後まで続いていました。

オフィスに到着すると、前日9日の10時22分、サイディング・スプリングのロブ(ロバート・マックノート)から1通のメイルが届いていました。そこには「Hi! Syuichi、2005 K3の周期が何と10年にジャンプしているのを知った。何か、初期の観測が悪かったのか。お前の初期軌道での周期の平均誤差は±90日となっているのに……。これはどういうことか。ところで、6月上旬の最後のダークを楽しんだよ。すばらしいシーイングのもとで、多くの微光の彗星を見ることができた……。たまには遊びに来いよ……。新彗星を発見するために……」と書かれてありました。

さて、この彗星は、ロブがサイディング・スプリングの50-cmウプサラ・シュミットで、2005年5月20日にみずがめ座を撮影したサーベイ・フレーム上に発見した17等級の新彗星でした。発見日と翌日の観測では、彗星はわずかに拡散し、西南西に30"の細い尾が見られたことが報告されています。発見後、彗星は2等級ほど明るくなり、2005年7月には15等級まで明るくなったことが観測されています。この彗星の最初に計算された軌道では、エンケ彗星の周期3.30年についで短い周期4.25年をもつ新周期彗星でした。それが、次の軌道計算では一挙に10年になったのです。そりゃ……、発見者だって驚きます。

さらに、彼に送付した最初の私の初期軌道では、周期はさらに短く4.06年(観測期間12日、周期の平均誤差±90日)でした。それが、次にロブに送った軌道では、周期はその2倍以上の10.0年(観測期間17日、±75日)と変化していました。この彗星の周期は、その後も軌道計算を行なうごとに大きく変化しました。そして、ようやく周期が落ち着いてきたのは発見1ヶ月後になってからのことです。その頃、計算される彗星の周期は7.24年(観測期間37日、±4.38日)となっていました。しかし、その後も彗星の周期はなかなか定まらず、ようやく最終軌道ではその周期は7.10年(観測期間約6ヶ月、±0.01日)となりました。彗星と地球の位置関係によってこのように周期が決まらない彗星がときどきありますが、その中でもこの彗星の周期は初期軌道で計算されたエンケ彗星に継ぐ短い周期が劇的に変化していきました。

とにかく、彼のメイルを読んで6月10日04時44分に『あんなボロの50-cmウプサラ・シュミットを使用して、きみがたて続けにたくさんの新彗星を見つけていることには本当に驚いている。いったい太陽系にはどのくらいの彗星、特に周期彗星があるのだろうか……。ところで、きみのメイルにある2005 K3の発見観測はもちろん悪くない。12日の観測期間から計算された私の初期軌道(最終観測が6月1日)からの6月4日の観測のずれは、わずかに2"、6月6日のそれは10"ほどしかない。その小さな違いが、彗星の周期を4年から10年に変化させたんだ。軌道要素の誤差、特に周期の平均誤差±90日は、計算上のもので真実の値を表しているとは限らないことが多い。それらは観測の平均残差に大きく依存している。特に最近のCCD観測では平均残差は非常に小さな値となり、以前の写真観測に比べて約5倍は小さくなっている。しかし、その量ほど軌道決定の精度が上がっているとは私は考えていない。私は、きみがさらに多くの彗星を発見することを期待している。ウプサラ・シュミットを占有して使えるようになったのかい。私も1つくらい新彗星を発見したいものだ』というメイルを返しておきました。

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LINEAR彗星(2005 K2)

マックノート周期彗星(2005 K3)発見の1日前の5月19日にLINEARサ−ベイでケフェウス座を撮影したCCDフレーム上に発見された18等級の新彗星がありました。発見当時、彗星には西に短い尾が見られましたが、ごく普通の彗星のようでした。しかし、発見翌日、ベルギーのフトゼバウトの観測では、彗星は非常に拡散し、西に1'の尾が見られました。また、同日のテ−ブル・マウンテンのヤングの観測では、彗星の形状は大きく伸び、拡散した8"のコマと西に40"ほどの尾が広がっていることが報告されていました。報告された彗星の形状から考えると、この頃すでに、この彗星に異変が起こる予兆があったのかも知れません。さて、この彗星の近日点距離は0.54 AUと小さく、6月中旬には地球に0.64AUまで接近し、北天から南天へと大きく動き、その光度も14等級まで明るくなることが予報されていました。

発見から9日後、5月29日01時17分に上尾の門田健一氏から、ほぼ空の北極を動くこの彗星が5月28日01時にCCD全光度で13.9等に増光していることが報告されます。その15時間ほど前、27日10時半に行なわれたモドラの観測では彗星の光度は17.9等(核光度)と報告されていました。そのため、その間に彗星は約4等級ほど増光したことになります。この増光は、久万の中村彰正氏によっても5月31日20時半に13.1等、また、同日に門田氏によっても13.3等とより明るく観測されています。彗星はさらに増光を続け、そのCCD全光度は、6月5日には12.5等(中村)、12.4等(江崎裕介;豊中)と観測されました。また、その眼視全光度も、6月4日に11.6等(サンジュアン;スペイン)まで明るくなっていました。

6月11日05時50分に届いたIAUC 8540では、6日に11.7等(吉田誠一;群馬)、7日に10.3等(ビーバ;仏)、9.08日に9.8等、9.95日に8.9等(ゴンザレス;スペイン)と、その増光が報告されていました。特に6月9日の観測では、約1日の間に彗星は1等級ほど増光したことになります。なお、この増光は彗星核の分裂によるもののようで、6月10日以後にはほぼ尾の方向、主核から北東の方向、約40"の位置に光度の少し暗い分裂核が観測されました。仮に、もしこの状況が続けば、彗星の光度は6月末から7月上旬にかけて、計算上5等級まで明るくなる勢いでした。

そこで、6月12日21時01分に美星の浅見敦夫氏に『まだ美星ですか。それとも秦野ですか……。IAUC 8540にあるとおり、2005 K2が6月9日に8.9等(それも1日で1等級)増光しています。曇り空でしょうが、明るいから写ると思います。現在、まだ増光中か調べてもらえませんか』というメイルを送り、観測を依頼しました。しかし、22時52分に氏から戻ってきたメイルでは「はい承知しました。でもメイルに気づいたのが遅かったため、もう難しいかも知れません。また、美星は曇天で北斗七星も見えません。一応望遠鏡を向けてみます」という状況が書かれてありました。それでも翌日には、氏は望遠鏡を向けてくれたようです。6月13日23時12分に、浅見氏から「50-cmは、死角で向けることができないため、21時過ぎに1.0-mを向けてみました。今夜も美星は昨夜と同様にうす雲があり、月がおぼろに見える透明度の悪い状況ではっきりしたことは言えません。彗星は撮れました。しかし……、中央集光が弱く、拡散していて位置測定はできません。明るさは13.5等くらいでしょうか。どうみても10等より明るい彗星には見えません。増光後、戻りつつあるのでしょうか。もう少し天候が良いと良いのですが残念です。明日から秦野で観測したいと思います」というメイルが届きます。

しかし、観測は思わぬところから届くものです。6月14日21時20分、オフィスに出向いてくると、その日の昼間12時55分に、昨年(2005年)末に亡くなられた豊中の江崎裕介氏より5個の彗星の観測が届いていました。その観測群の中に6月13日夕刻に行なわれたこの彗星の4個の観測がありました。実は、この10日前の6月4日夜には、5日01時30分までに5件の無言の留守番電話が記録されていました。この夜に私がオフィスに出向いたのが02時00分であったために、それを受けることができなかったのです。しかし、翌日の6月5日夜21時15分になって、江崎氏から電話があってその無言の留守番電話の主が氏であったこと、そして、氏が当夜に私のオフィスを訪れてくれていたことがわかります。氏は、21時から01時半まで、私がオフィスに出向くのを待っていてくれたのでした。その夜の氏からの電話では、約1時間半の間、氏の身の上話をただ聞くだけでした。しかし、氏の話をもっと真剣に聞いて相談にのってやれば良かったと、今では後悔しています。

さて、その氏のCCD全光度は10.6等と明るく、彗星は、まだ眼視光度では9等級前後であることが想像されます。氏からは、6月16日14時57分になって、60秒露光のフレームを10枚重ねた画像が送られてきました。この画像では、彗星は10等級くらいの明るさで見えていたことがわかります。彗星は、その後、6月17日に8.5等(グロス;仏)、9.2等(ゴンザレス)、24日に9.9等(サージェント;豪)と眼視観測されています。しかし、位置観測は6月20日までしか報告されず、彗星の観測はこれで終了しました。

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新星 2005-06a in アンドロメダ大星雲

6月17日は、20時40分と久しぶりに早くオフィスに出向いてきました。この夜は『天文ガイド』誌に送る星図を作成し、その夜の朝(18日)には、編集部にそれを送らなければ、いけなかったからです。星図を作成するために必要な彗星の軌道計算に集中していると、18日03時12分に電話があります。受話器を取ると「あぁ〜。中野さん……」という会話の出だしで、山形の板垣公一さんからの電話であることがわかります。『久しぶりですね。何か見つけましたか』とたずねると、「はい。アンドロメダ大星雲の中に新星を見つけました。17.5等です。これから送ります」という新星の発見報告でした。氏からのメイルは03時14分に届きました。そこには「30分間の間には移動なし、明るさに変化なしです。発見フレームの最微光星は19.7等で、6月9日に撮影した捜索フレームにはその姿が見られません」という報告と新星の測定位置が書かれてありました。

ダン(ダニエル・グリーン)への報告を作成していると、03時23分に氏から電話があります。しかし、氏の声が聞こえてすぐ切れました。その1分後、もう一度電話があります。『どうしたんですか』とたずねると、「はい。IP電話なので……」ということです。そこで、『発見フレームは何枚なのか。その他の過去の捜索フレーム』についてもたずねました。すると「発見画像は6枚、今月は6月1日と6日にも捜索しています」とのことです。そこで驚いて『そんなにやっているのですか』と答えると、「はい。時期的に観測可能な夜は、まず捜索前に必ずこの大星雲を見ます」とのことです。それには、もう『さすがぁ〜。熟練者は違う』とびっくり、感心する以外言葉がありませんでした。さらに『超新星と新星の違いをどう判断しているのですか』とたずねると、「はい。近距離銀河ですから、もし天体が超新星であったならば、あっという間に明るくなるはずです」との返答です。これには、もう『この方、熟練の域に達した』と感服しました。氏の発見報告をダンに送ったのは18日03時35分のことでした。そのメイルは、その確認のために上尾の門田健一氏と八ヶ岳の串田麗樹さんにも転送しておきました。

翌日(18/19日夜)、オフィスに出向いてきたのは00時25分のことでした。すると、その夜の18日20時19分に板垣氏より「昨夜はありがとうございました。お蔭様でhttp://cfa-www.harvard.edu/iau/CBAT_M31.htmlに出ました。今後とも、よろしくお願いします」というメイルが届いていました。氏のメイルにはそのウェッブ・ページの内容がつけられていました。そこには「チェコのホルノフらは、ラパルマの2.5-mアイザック・ニュートン望遠鏡で2005年6月14日にRバンドとHαで撮影したCCDフレーム上に17.7等の新星を発見した。この新星は、2003年から2004年にかけて撮影した極限等級が22等級のフレームには見られない。この新星は、山形の板垣公一氏が6月17日に撮影した捜索フレーム上にも独立発見された。氏の発見光度は17.5等で、6月8日の極限等級が19.0等のフレーム上には、出現していなかったという」と報告されていました。板垣氏の系外銀河に発見した新星は、M110の新星に続いて、これで2個目となりました。

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168P/ハーゲンローザ周期彗星

6月22日22時50分、オフィスに出向くと、18時21分にロブからドイツのメイヤーが「19世紀に出現したバーナード第1彗星(1884 O1)と、最近サイディング・スプリングで発見されたアモール型の特異小惑星2005 MW1の同定の可能性を指摘している」というメイルが届いていました。メイルには、さらに6月10日04時44分に送った私のメイルへの返答として「発見時にのみ明るくなって、偶然発見される木星族の周期彗星はたくさんあるに違いない。たとえば、私が発見した2005 L1や2005 K3などは、過去にも発見時と同様の明るさが続いていたならば何度も観測されていてもおかしくない。たぶん2005 L1は、最近木星に接近して観測できるようになったのだろう。しかし、2005 K2にはそのような痕跡がないため今回の出現時に増光していたのだろう」と書かれてありました。ロブの言うとおり、2005 L1は過去何度も木星に近づき、近日点距離が1900年代の5.8AUから1940年代の4.0AU、1980年代の3.8AU、そして、今回の発見時の3.1AUと、しだいに小さくなって発見されました。しかし、上で紹介された2005 K3は、1900年初頭も2000年初頭も近日点距離は1.5AUとほとんど変化していません。従って、ロブの推測のとおり今回の出現時だけ増光して発見されたのでしょう。ということは、次回の出現時(2012年)は暗いのかも知れません。

ロブには、6月23日03時23分に「確かに、2005 MW1とバーナード第1彗星の軌道は似ているね。ただ、最近の回帰での軌道傾斜角が少し違うのが気がかりだ。2005 MW1は、もう少し観測可能だからそれを待ちたい」というメイルを送っておきました。その2005 MW1は、2005年6月17日から9月13日まで観測されました。そこで、バーナード第1彗星近くの過去軌道を計算すると、T=1883年6月14日、q=1、16AU、e=0.59、ω=330゚、Ω=326゚、i=6゚となります。一方、バーナード第1彗星の出現軌道は、T=1884年8月16日、q=1.28 AU、e=0.58、ω=301゚、Ω=7゚、i=5゚ですので、恐らく別物なのでしょう。

さて、7月5日22時20分にオフィスに出向いてくると、ロブより19時53分に一通のメイルが届いていました。そこには「Hi! Syuichi、この彗星1998 W2の近日点通過の誤差(ΔT)を知っているか。我々は、これからこの彗星の検出を試みるつもりだ」と書かれてありました。そして、さらに「ハートレイ・アイラス彗星(2005年10月号参照)や2005 K3(今月号)もそうだったように、私はお前の近日点通過の誤差は小さく見積りすぎだと思う。ソフトウェアの中にバグがあるのではないか。あるいは、観測誤差をもっと大きくするべきではないか……」と続いていました。彼は、自分たちが接してきた彗星についてのたび重なる小さな誤差の見積に私のそれを信用しなくなっているのです。

ムッカ……として、同夜23時32分にロブに次のメイルを送りました。そこには『まず、最初の件だが、HICQ 2005にもあるとおり周期の不確かさは±0.07日、ずれの幅にして0.14日だ。この値は、私が計算してブライアン(マースデン)の軌道につけ加えたものだ。また、このΔTは、要素変化法による軌道改良で、観測方程式から正規方程式を作成し計算したものだ。たった今、エカート・ブラーワ法によってもそれを確かめた。その結果は±0.13日(幅にして0.26日)で、さほど変わらない。これらは、まったく別の計算法による。従って、この彗星のΔTはそんなものだろう』とこれから検出を開始する彗星の近日点通過の誤差を伝えました。

そして、2番目のプログラムがおかしいという件には『Yes、最近の彗星について、実際のΔTに比べ、私の推定値があまりにも小さすぎることに、ちょっと気まずい思いをしている。この誤差の推定については、ず〜と昔、一度プログラムを修正した記憶がある。しかし、我々が小惑星の軌道にその不確性(U)を与えるとき、また、私のプログラムをチェックした。というのは、小惑星センターでは、私が残してきたプログラムを使っているためだ。それらは1950年分点用であったが、彼らはそれを2000年分点用に変更した。もし、私のプログラムにバグがあれば、これまでに公表してきた小惑星のUがすべて間違っていることになる。ただし、レーダ観測を含む軌道は別だ。彼らは、そのための軌道改良のプログラムをJPLから得たのだと思う。いずれにしろ、それらを含め、私と小惑星センターのUは、まだ良く一致している。そのため、私のプログラムは正しい値を計算していると信じている。一方、前回のメイルに書いたとおり、軌道要素の誤差は、観測の平均残差に大きく依存している。このため、計算される値とは別に、観測期間3ヶ月ではΔTは±3日、6ヶ月では±1日くらいあるものと私は推測している。つまり、この彗星は約5ヶ月の期間からの予報なので、ΔTは±1.5日から±2日くらい(幅にして4日ほど)であろう。検出を待っている……。Good luck!』というメイルを返しました。

その約3時間半後の7月6日03時09分には、ロブから「この彗星を検出した」というメイルが届きます。『さすがはロブだ』と思いながら彼のメイルを読みました。そこには「協力ありがとう。ΔTが小さいということを知ったおかげで、小さな捜索エリアにたやすく集中できた。来訪中のエリック(クリステンセン)が50-cmウプサラ・シュミットを使用して予報位置から南西、わずかに13'離れたところにこの彗星を検出した。これは、ΔTにして約+0.27日であったことを意味する。間もなく、エリックは小惑星センターに観測を報告するだろう」と連絡がありました。定かではありませんが、最初彼らは1.0-m反射でこの彗星を探していたのでしょうか。しかし、この頃の彗星のバリエーションが大きかったこと、また、私のメイルを見て写野の広いウプサラ・シュミットに切り替たのかも知れません。

それからちょうど1時間後の04時09分に、エリックから4個の検出位置が届きます。彗星の検出光度は18.3等で、彗星には西に10"ほどに伸びた幅が6"のコマが見られたとのことです。それらの観測から連結軌道を計算し、2夜目の確認観測用にその軌道を送っておきました。04時36分のことです。

ところがです。もう一人、この彗星の検出に挑戦していた人がいました。オーストラリアのヘラルドです。彼は、36-cm f/3.9シュミット・カセグレンを使用して、サイディング・スプリングでのエリックの検出の前日の7月4日に、すでにこの彗星を検出し、5日にそれを確認して中央局に報告していました。5日の確認観測もエリックより3時間半ほど早く行なわれていました。その時間差分、ヘラルドの報告の方が早く中央局に届き、IAUCの編集も終っていたのでしょう。そのため、7月6日05時31分に到着したIAUC 8560には、サイデング・スプリングの検出は取り上げられませんでした。

翌7日01時10分になって、ヘラルドの観測を含めた連結軌道を計算して、ロブに「エリックの報告のあと、少なくとも1時間半の余裕があったというのに、IAUC 8560にエリックの検出が取り上げられなかったのは納得できない。中央局では、同時に公表する連結軌道を再計算するのが面倒だったのだろう……」というメイルとともに送付しました。なお、サイディング・スプリングでの検出は、7月12日07時21分到着のIAUC 8563で公表されました。

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