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天文雑誌 星ナビ 連載中 「新天体発見情報」 中野主一

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094(2012年10月/1978年12月〜)

271P/バンホウテン・レモン周期彗星(1960 S1=2012 TB36)

前半からの続き】マースデン博士が、バンホウテン彗星の予報を1976年7月7日発行のIAUC 2970に公表してから36年が経過した2012年10月26日、レモン新彗星(2012 TB36)の発見を告げるCBET 3269が到着します。その1分前の02時28分にドイツのメイヤーから「この彗星は1961年の出現以来、長らく見失われているバンホウテン周期彗星(1960 S1)の回帰だ」と2つの彗星が同定できることを指摘したメイルが届きます。さらにメイヤーからは、02時36分に「数年前にこの彗星の再計算を行った。その軌道からの予報では、今回の回帰は2013年7月頃と予報された」という連絡も届きます。03時03分には、小惑星センターのウィリアムズがすぐその同定を確かめ、彼の連結軌道が知らされてきます。これらのメイルを見たのは、10月26日朝のことでした。すぐ、メイヤーに『すばらしい同定だ。ブライアン(マースデン)がBNK 165の私の予報軌道をシタルスキー博士の予報とともにIAUC 2970に掲載してくれた。それは、私の名前がIAUCに現れた3回目のことで、大変うれしかったことを覚えている』というメイルを06時59分に送付しました。そこには言い訳として『この時期、私は1年で一番忙しい時期で、02時29分に届いたCBET 3269を見ていなかった』と書いておきました。ダンがこの同定を公表したのは、約2時間後の08時10分に到着のCBET 3270のことでした。これで、過去に見失われた彗星がまた1つ減ったことになります。

35年前の回想から始まる273P/ポン・ガンバート彗星

1978年12月14日に私はマースデン博士に1通の手紙を送りました。そこには『毎週1回、奈良の長谷川一郎氏の自宅に行って、オールトなどの論文を読まされている。氏からは彗星の太陽系外起源説を学んでいるよ。京大の薮下氏の彗星の原初軌道の計算も手伝っている。ところで、ポン・ガンバート彗星(1827 M1)について、比較星の位置を当時のAGK3星表からSAO星表にある新しい恒星に置き換えて観測位置を改良し、この彗星の軌道を計算した。ただ、彗星カタログにある小倉伸吉氏の計算した軌道を改良することはできなかった。下に掲げた軌道は、1827年6月21日から7月21日までに行われた68個の観測を使用して計算したものだ。観測の平均残差は±14".5、周期は57.46年。その平均誤差は±5.6年くらいだ』という報告を書いてありました。

当時、マースデン博士は、1972年から彼が発行している彗星カタログの第3版を編集中でした。博士からは「ちょうどいいところできみの軌道が届いた」と、第3版では私の軌道を取り上げてくれました。以後、博士が亡くなる前に最後に発行した第17版(2008年)まで、この私の軌道が延々と掲載されることになります。

それから10年以上が経過した1990年代になって、神戸の長谷川大先生は、古記録から見つけた周期彗星の同定作業を進めていました。1995年夏になってそれらがまとまり、過去の周期彗星4個を「Periodic Comets Found in Historical Records」として公表する準備を進めていました。その中には、1827年に出現したポン・ガンバート彗星と1846年に出現したデビコ彗星(1846 D1:当時考えられていた周期が約75年)が含まれていました。2つの彗星とも軌道が不確かのため、最初の出現以来、その予報すら公表されていませんでした。

しかし、大先生が古記録に見つけた彗星との同定、軌道連結の結果、デビコ彗星が2004年6月29日、ポン・ガンバート彗星が2022年1月31日に帰ってくると期待されます。『うぅ〜ん。デビコが約10年後か。これは確かめられる。でも2022年は2人ともしんどいかもしれない……』という感じで結果をながめていました。

さて、デビコ彗星は1304年に出現した彗星(1304 Y1)との同定です。その連結軌道によると、不確かですが1068年、1535年、1768年に出現した彗星も、この彗星の出現である可能性が大きいことが判明します。一方、ポン・ガンバート彗星は、1110年に出現した彗星(1110 K1)と同定したものです。1110年出現の彗星の周期は65.6年と推定され、その連結軌道では、空を大きく移動した1110年の観測を概略±0゚.5以内の精度で表現していました。従ってこの彗星との同定は、ほぼ確かなものでした。さらに、それを証明するかのようにその連結軌道から過去に出現した多くの彗星との同定も可能となりました。特に455年、587年、1239年に出現した彗星が同じものであることは確かであり、彗星には合計5回の出現が確認されました。このようにこれら2つの彗星の予報(2004年と2022年回帰)には、私たちは大きな自信を持っていました。

しかし私は、大先生に『こんなにたくさん見つかるものですかねぇ……』と尋ねると、大先生は「ハレー彗星の時だって1つ正しい組み合わせを見つけると、あとはぞろぞろ出てきたんだ。同定とはそんなもんだよ。きみ……」と言われました。それからというもの「我々には、この同定が正しいと確かめる責務がある」と、次にポン・ガンバート彗星が回帰する2022年まで、2人でなんとか生き延びてそれを確かめるんだと、頑張って生きてきました。

その年の8月になって、私たちの論文の校正刷りが送られてきます。しかし9月12日から27日までは、イタリーのボルカノ(Vulcano)島で9月18日から22日まで開催されるNEO(Near Earth Object)の会合に、札幌の渡辺和郎氏と出席する予定でした。そのため、論文の校正は大先生にお願いしました。しかし、大先生から「この10月発行だから、お前が出かけている間に校正をしなくてはいけない。それも猛烈に急いでだ。この忙しいときに……」とまるで私がそれから逃避するような口調でお叱りを受けました。

さらに当時は、我が国での新天体発見が多かったために、今のようにこっそりと出かけることができません。そのため、9月3日にはOAA/CSのユーザ宛にこの間の新彗星、特異小惑星、超新星などの緊急の発見は、久万の中村彰正氏に連絡するよう伝えました。また、ダン(グリーン)には、その間、ハーバード宛に届く私のメイルを読んでくれるように連絡しました。この会合には、ブライアン、ギャレット(ウィリアムズ)も出席します。このため、ダンは3人のメイルを一度に読まなければなりませんでした。彼からは「3人のメイルを同時に読むなんて初めてだ……」とぶっぶっ言うメイルを返してきました。出発直前になって、私のところに以前に発見の報告があった方々の中でOAA/CSのメンバーでない人たち(26名)には、FAXか葉書で、この間の発見は中村氏に連絡してくれるように伝えました。

ところで、地中海の孤島ボルカノ島に行くためには、シシリー島のパレルモにまず渡って、そこから鉄道で東へ約200km、ミラッゾという小都市まで行って、さらに高速艇で約1時間かけて島に渡ります。『なんで、ローマかミラノかで開いてくれないの』と思いながらの旅行でした。私たちは9月13日に成田を出て、同日ビエナ(ウィン)着、そこで4泊して、17日05時ホテル発(注意:以下は欧州夏時刻=JST−7時間)、ミラノ、パレルモ、ミラッゾ経由で同島に向かいました。ビエナでは、1年ぶりにリボー(クバチェク)夫妻に再会しました。前年にブラチスラバからビエナの遠景は眺めていましたが、当地を訪れるのはこれが初めてのことです。ホテルでは、もっぱらCNN国際版を見ていました。「スーパータイフーン、アスカが東京以西への直撃コースを取っている。ミッチーさんが急逝した」というのが東京からの主なニュースでした。『台風か。その後、晴れるね。何か発見の報告があるかも……』と思いながらビエナをあとにしました。別れるとき、ドナウの川畔でリボーからビエナの印象を聞かれました。私は『プラーグ(プラハ)の方が落ち着きがあって好きだ。何よりも、プラーグには美しい女性が多い。ヨーロッパで一番だ』と答えました。

さて、予定どおり早朝05時にホテルを発っても、ボルカノ島に到着したときはもう夕刻近くになっていました。着いてみてわかりました。『何だ。英語のVolcanoそのものか』というくらいの火山だけの直径が3kmの小っこい島でした。港で島の地図を探していると、あとの高速艇でやって来たウェスト博士に出会いました。そこでタクシーで一緒に会場のホテルへと向かうことにしました。こんな辺鄙なところで開かれた会合にしては、参加者が70名と全世界のほとんどの小惑星観測者と研究者が集まっていました。日本からは、私たち以外に天文台の磯部琇三氏、通信総合研究所の吉川真氏(いずれも当時)が参加していました。

会議の冒頭、主催者のアンドレア(カルーシ)は「ここには、コンピュータも通信設備もテレビもない。ここは、会議の討論だけに集中できる最適の場所だ」という挨拶がありました。私は『なんて無茶苦茶な話だ』と思って彼の挨拶を聞きました。島に着いて3回目の長い夕食が始まった直後、つまり9月19日19時すぎにブライアンが駆け寄ってきました。「おい! 喜べ。新彗星が見つかったぞ」と言って1枚のメモを示しました。「第1発見者はNakamura、第2がUtsunomiya、第3がTanaka、第4がMachholzだ」。『それはすばらしい』。「ところで、軌道が確定した後の名前の件だが、第4以降は論外だ。しかし3名の連記では名前があまりにも長すぎる。できれば、最初の2人の発見者にしたい」という会話が延々と続きました。

中央局には、発見処理をお願いしておいた中村氏からも、04時45分に宇都宮章吾氏の発見報(21時15分発見)が届いていました。氏のメイルには「大型台風が通りすぎて、秋晴れに向かっている」とありました。『そう、あのアスカが通りすぎたのか……』という印象でした。ダンは、新彗星発見の第1報を伝えるIAUC 6228を9月18日06時56分に発行します。そして18日15時11分には、マックホルツから新彗星を14時24分に発見したというメイルが中央局に届き、独立発見を伝えるIAUC 6229は19時27分に発行されました。そこには、マックホルツの発見時刻より半時間ほど早くに行われたモリスの確認観測がありました。彼の眼視観測によると「新彗星は6.5等。強い中央集光があり、コマの視直径約4'、北の方向に長さが70'と45'の淡い尾がある」とのことでした。

位置観測による確認がもっとも早かったのは、オーストラリアのガラッドでした。彼は18日20時08分から20時49分に行った6個の観測を23時21分に報告しています。この後、和歌山の吉田茂氏、仙台の遊佐徹氏によって20時50分から21時50分かけて行われた8個の観測が、19日00時27分に中村氏より報告されました。同氏からは引き続き、00時56分に久万と仙台(黒須)からの観測の報告もありました。さらに、氏は芸西の関勉氏の観測を11時33分に報告しています。そのメイルには「関氏が17日早朝、クロイツ群の9月の予報位置を掃索中に薄明の中で21時19分にこの彗星を発見していた」ことが伝えられています。ダンはここまでの観測を19日14時50分発行のIAUC 6230で公表しました。もちろん、関氏が3人と同一日に彗星を発見していたことも伝えられました。

私がここまでの出来事を現地で知ったのは、夕食を早々に切り上げて中央局にコネクトした9月19日19時27分のことでした。そばで渡辺くんが見ていました。ログイン中にダンに『おぉぃ……、忙しいか。ボルカノにいるぞ』と話しかけました。すると、すぐさま「忙しい。でも、Akimasaは良い仕事(Very good job)をしているよ」と返事があります。彗星の追跡観測を見るとすでに、18日20時から19日07時までの多くの観測が報告されていました。そこで、渡辺くんの前でバイサラ軌道の実演を見せました。得意になって……です。出てきた軌道は近日点距離がq=0.6auでした。『この軌道、どっかで見たなぁ……』と思いながらも『なぁ。神様はすごいだろう』と渡辺くんとの話に夢中になり、そのことを気にも留めませんでした。

翌9月20日になっても、ブライアンはまだ彗星の名前に悩んでいました。しかし、彼の悩みを一気に解決してくれる事態がまもなく訪れることを、もちろんまだ誰も知りません。この日19時49分に、ダンに追加の観測がどこのディレクトリに置いてあるのかを問い合わせました。すると、19時59分にダンからわずか2行のメイル「1995 S1=1846 D1(de Vico)。観測は、……にある」が届きます。『げぇ…。なっ、何と。昨日軌道をチェックするんだった。道理で頭に残っていたはずだ』と思いながら、ダンにメイルを返しました。当夜は、日本人4名の参加者の間で、そろそろホテルの料理に飽きたので町へ食事に行こうという約束がありました。このダンの指摘した同定をチェックしたいという気持ちでいっぱいでしたが、町へ食事に出かけました。夜19時半のことでした。食事といっても小さな島です。何軒かあるレストランの1つでスパゲッティを頼んで、22時に食事が終了しました。

その日、深夜になって、9月17日から20日までの観測から概略軌道を出すと、間違いなく軌道はデビコ彗星と一致します。午前02時からは、1846年と1995年の連結軌道の計算を始めました。その結果、この新彗星はデビコ彗星の回帰に間違いありません。しかし、この同定は私たちにとって大問題です。日本で大先生が校正している論文が、もしこのまま出版されれば、同時に発表される他の3個の同定の信憑性までも疑われかねない重大時です。絶対、間違いない同定までもです。その最終校正が今、大先生の手で行われているはずなのです。『今ならデビコを削れるかも……。日本は今、午前08時前か。大先生に連絡しなくては』と日本への国際電話を入れました。幸いにも、大先生はまだご在宅でした。『1995 S1はデビコです』。「あぁ、そうか」と味気なく反応されました。『論文の中のデビコを削った方が良いと思います。そうでないとあとのものまで疑われます』と言って、それを削るかどうかは大先生の判断に任せることにして電話を切りました。

結果として『古記録に現れた彗星との同定は、たとえ充分な連結軌道が計算できてもむずかしい』というのが私の印象でしょうか。『でも私たちには、まだポン・ガンバートが残っている。がんばって生きなければ……』と2022年回帰に希望を抱くことにしました。しかし、そのわずかに残った希望まで打ち砕かれる事件がこれから17年後に発生することになるなど、このときは思ってもみませんでした。【次号に続く】

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