Location:

メシエ天体ガイド彗星の狩人 シャルル・メシエ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

1730年6月26日、フランスの片田舎のバドンヴィレで一人の男児が産声をあげました。12人兄弟の10番目として誕生した彼が、後に多くの彗星を発見し、メシエ天体カタログを編纂したシャルル・メシエその人です。

オテル・ド・クリュニー(現・クリュニー中世美術館)オテル・ド・クリュニー(現・クリュニー中世美術館)。右端の塔の上に観測所があった(撮影:廣瀬匠)

両親を亡くした彼は、1751年、21歳の時に郷里の村を後にし、パリに向かいました。フランス海軍天文台の天文官ニコラ・ドリールの助手となった彼は地図の書き写しや観測記録の保存の仕事を与えられましたが、一方でドリールに天文学の基礎を教えられ、オテル・ド・クリュニー僧院にあった彼の天文台で天体観測を行うようになりました。

こうして天文家としてスタートを切ったメシエが最も興味を持ったのは彗星探しでした。彗星を発見すれば自分の名前がその彗星に付けられ、一躍有名になることができます。こうして、彼は彗星探しに没頭するようになったのです。

1759年1月21日、ドリールの予報をもとに捜索を続けていたメシエは、ハレー彗星の回帰をとらえることに成功しました。しかし、世界最初の発見者という栄誉は、1758年12月25日にハレー彗星を発見していたドイツのパリッチュにとられてしまったのです。しかし、この一件でメシエはフランスの天文学者に広くその名を知られることになりました。

1760年、メシエが師と仰ぐドリールが退官し、天文台の設備のすべてを任されることになったメシエは、その後も彗星捜索に注力し、ロシア王立協会、ロンドン王立協会など外国の協会会員となりました。しかし、自国であるフランスの学士院会員の資格は、なかなか得られなかったのです。

彗星を捜索する時に、彗星と紛らわしい天体(星雲、星団のような彗星状に見える天体)が多いことに閉口したメシエは、1764年の初めからこうした天体のリストを作り始めました。そして、1764年の終わりに、M1〜M40(M40は重星であり、星雲でも星団でもないのですが、体裁を整えるために追加したと言われています)までの40個のメシエ天体リストを完成させました。

その後、1765年におおいぬ座にM41を発見したメシエは、リストを45個に増やすことにし、M42、M43(オリオン大星雲)、M44(プレセペ星団)、M45(プレアデス星団)を加えました(これも体裁を整えるためで、M45のように彗星と見間違えるはずのない天体まで追加しました)。

メシエが発見したC/1769 P1彗星メシエが発見したC/1769 P1彗星

1769年、おひつじ座の南のはずれに彗星を発見し(同年10月8日に近日点を通過したこの彗星は大彗星となりました)、ベルリン科学アカデミーの外国人会員の資格を得たメシエは、翌1770年にも彗星を発見し(1771年4月19日に近日点通過)、ついにパリ学士院の正会員の資格を得たのです。

メシエは、1771年にメシエ天体カタログ第1巻(M1〜M45)、1781年に第2巻(M46〜M68)、1784年に第3巻(M69〜M103)をそれぞれ発表しました。

そして、1817年4月、水腫のために病の床に臥したシャルル・メシエは、彗星発見に捧げた87歳の生涯を終えました。

メシエによって発表された星雲星団は全部で103個ですが、現在では、M104からM110までが追加されています。このうち、M104についてはメシエ自身がカタログに追加しようとした形跡が残っていますが、M105からM109までは同僚のピエール・メシャンの観測によるもので、20世紀半ばに追加されたものです。なお、1784年に発表された第3巻の中にも、メシャンによって発見されたものが約20個含まれています。

最後のM110は、メシエがM31を観測した際に見つけて記録を残しているとして1966年になって追加されたもので、解説書によってはメシエ天体に含めず、NGC 205としているものもあります。

ところで、110個の天体のうちには、位置の怪しい天体もありました。M40、M47、M48、M91、M102の5つで、このうちM47はNGC 2422、M48はNGC 2548であることが確認されています。しかし、M40は重星であり、M102はM101の見誤りとされ、リストから削除されています。また、M91はM58ともNGC 4571とも言われ、確認されていません。

つまり、位置のはっきりしているメシエ天体は、全部で107個ということになります。