天文雑誌 星ナビ 連載中 「新天体発見情報」 中野主一

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2007年5月2日発売「星ナビ」6月号に掲載

新星状天体 in M33

2006年9月末の晴天は9月28日の朝まで続きました。そして、SWAN彗星を自宅(サントピア・マリーナ)で観測するために、9月27日夜は少し早めの20時45分にオフィスに出向いてきました。仕事を早めに終えて03時30分に帰宅しました。空は良く晴れていましたが、自動導入がうまく働かず、なかなか彗星を捉えられません。しかたなしにマニュアルで探し始めました。すると04時48分、偶然、写野に入ってきました。緑青色のきれいな彗星で、05時05分まで追跡しました。画像から測光すると彗星は8.0等でした。ついでですので、目の前の約30-km前方に見える関西国際空港と連絡橋を撮影しました。一応、10-cm(600-mm)のレンズですので、これまでのデジタル・カメラでの画像に比べると、格段に良く写りました。翌9月29日からは、ここは曇天になりました。しかし、山形では10月に入ってもまだ晴天が続いていたようです。

10月1日の夜、オフィスに出向いてきたのは01時50分のことでした。『遅くなってしまったなぁ……』と思いながら仕事を始める準備をしていると02時22分に電話が鳴ります。「あぁ……、中野さん」です。ということは、また山形の板垣公一氏からのようです。『どうしましたか。また何か見つけましたか』とたずねると、「はい。今度は、さんかく座にあるM33(=NGC 598)に新星を見つけました。メイルで報告しました」とのことです。その氏のメイルは02時20分に届いていました。そこには「M33の新星としてはとても明るいと思います。30分間の追跡では移動も光度変化もありません。過去画像の複数枚調べましたが、出現していません。もっとも最近の捜索は一週間前の9月24日ですが、極限等級が18.5等のフレーム上には、まだ出現していません」という報告と、その出現位置が測定されていました。しかし、メイルでは発見フレームの極限等級と露出時間が報告されていませんでした。そこで02時31分に氏に電話を入れこれらを確かめると「露出が60秒、極限等級が19.5等級とのことです」。

氏の発見は、02時37分にダンへ送りました。すると、02時43分に上尾の門田健一氏から「うわっ……、今度はM33に明るい新星が出現ですね。今夜は夜半までは時々晴れ間が見られましたが、現在は曇天です」という現況が報告されます。板垣氏からは、03時06分に「あらためてこんばんは。メイルを拝見しました。ありがとうございます。星探しがしたくて、術後2.5日で医者をだまして9月28日に退院し、そのまま山に来ました。でも、その日は予報に反して曇天でした。残念! 病院にもう一泊すれば良かった。やはり、まだ痛かった。今夜は少し晴れたので一週間ぶりの捜索でした。捜索は楽しいです!」というメイルが届きます。そして、電話があります。氏は「M33の新星って過去にありましたっけ……」。『数年前に1個ありましたね。ず〜と(30年〜40年前)昔にもあったような気がしますが、それは、もう私のメモリーボードに残っていません』と答えました。すると、04時35分に氏から「先ほどは、ありがとうございました。過去のM33の新星を調べました。中野さんの記憶どおり3年前にありました。私も観測していたのに忘れていました。でも、画像を見て思い出しました。IAUC 8199とIAUC 8234に出ています」とそれを調べてくれました。

ダンは、氏の発見を05時34分到着のCBET 655で公表してくれました。それによると、この新星は、テキサス大学の観測グループによって9月28日14時JST頃に独立発見されていました。そのときの光度は17.3等、さらに彼らは9月29日14時JSTの光度を16.9等と観測しています。板垣氏の発見はその1日半後のことで、その出現光度は16.6等でした。従って、新星はまだゆるやかに増光途中(1日あたり0.3等ほど)のようでした。なお、板垣氏は2002年10月にアンドロメダ大星雲の伴星雲M110に15等級の新星、さらに2005年6月に同大星雲に17.5等の新星、2006年4月には同大星雲に18.0等の新星、さらに、6月と8月には18.0等の新星、9月には急激に増光する16等級の新星を発見しています。板垣氏が系外銀河に発見した新星は、これで8個目となりました。

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明るい特異な超新星 2006jc in UGC 4904

10月上旬になると、再び天候が回復し、10月4日朝には10月2日21時JST頃に発見されたレビー周期彗星(2006 T1)を04時05分に観測できました。真っ青のきれいな彗星でした。そして、10月7/8日夜は久しぶりに快晴となりました。そこでうれしくなって、10月8日02時26分に上尾の門田健一氏に『快晴ですが、もちろん月があります……。明るい彗星だけを撮ろうかと思って望遠鏡をセットしました。でも、4Pを入れると月がすぐそばにあります。あきらめて177Pを入れて1時間自動撮影にして戻ってきました。でもこの彗星、2006 T1とさほど明るさが変わらないのに私のCCDでは限界です。たぶん写ってないでしょう。04時からは、2006 T1は、撮れるでしょう。でも、その下にいる2006 M4は、前の建物がじゃまで撮れません。自宅に帰っても10-cmの架台は、もう壊れてしまったので使えません。しばらくここでは撮れないですね。彗星が西の空に回っても、ここの夕方の空は、横の自動車教習所の何十本もの水銀灯、近くの橋の照明、車のライト等で、新聞紙を読めるほど明るく、それに西は、ベランダのある2階の屋根の影になるのでもともと無理です』というメイルを送りました。

すると、02時46分に氏から「こちらも快晴ですが風がやや強く、時々望遠鏡が揺れて星像が斜めに流れます。オートガイダーで追尾していますが、ガイド中のモニタ表示では風をキャンセルしようとして間に合わず複雑に星が動いています。コンポジットすると平均化されて目立たなくなりますので、そのまま自動で撮像を続けています。177Pは集光部分がだいぶ小さくなりました。淡いコマが広がっているようです。月が大きいですが空のヌケがよいので、押さえで84P、76P、112Pをねらっておきました。写っていないかもしれませんが……。03時半ごろから2006 T1に向けてみます。明日は仕事ですので、2006 M4を観測しながら、T1を測定したら作業を終えます。月曜日も仕事ですので、夕方のM4は来週末になりそうです」という返信が届きます。その夜は全国的に晴天だったようです。2007 T1の観測は、門田氏だけでなく美星からも届きます。

当夜の洲本の観測を加え、軌道を決定すると、この彗星は周期が5年半ほどの短周期彗星です。そこで、06時07分と06時28分にこのことをブライアン(マースデン)とダンに連絡しました。そして、10月8日06時38分には、OAA/CSのEMESに『上尾の門田健一氏から10月8日早朝JSTの観測が報告されました。氏のCCD全光度は10.7等でした。同日朝、ぶあつい雲の中(直前までは快晴だった)、洲本でも追跡観測を行ないました。また、美星からも観測の報告がありました。なお、彗星の動きはすでに放物線軌道からのずれは大きく、この彗星は短周期彗星の1つでした。なお、まだ周期は大きく不確かです』というコメントをつけてその軌道とともに入れました。

さて、すでに先月号の中で『9月22日、夕方16時04分に山形の板垣公一氏から2通のメイルが届いていました。それらは、板垣氏が超新星の出現を報告したものの発見が公表されず、中央局の未確認天体のリストに残っている2個の超新星状天体についてのものでした。その1通は、次回に登場する「特異な超新星 2006jc」のものです。もう1通は、NGC 3412の近くにある無名銀河に出現した超新星でした。これらは、すでに2年近くも、中央局のリストに残っているものですが、そろそろ整理されるので、氏がそれらの観測をまとめたものです……』と、そのできごとの発端を紹介しました。

この未確認の超新星の1つは、板垣氏が今から(このときから)2年前の2004年10月15日UTにやまねこ座にある小さな系外銀河UGC 4904に出現した18.2等の超新星を発見したものです。この超新星は、発見1日前の10月14日に撮られた捜索フレームにも17.9等で写っているその姿が認められました。板垣氏は、10月16日、21日、そして23日までこの超新星を18等級で観測しました。しかし、この超新星は、11月には19.5等級より暗くなってしまい氏の捜索フレーム上に認められなくなりました。氏は、この超新星の発見と出現位置(α=09h17m20s.82、δ=+41゚54'32".6)を天文電報中央局に報告しました。しかし、氏の限界等級に近い発見であったためその発見が認められず、そのまま放置されてしまいました。氏は、2年後、つまり、今年2006年9月23日JSTになってこの銀河を捜索しましたが、その出現位置には19.5等より明るい星は見あたりませんでした。ところが、2006年10月10日深夜03時JSTに再びこの銀河を捜索した板垣氏は、その出現位置に極めて明るい13.8等の星が輝いていることを発見することになります。

その「劇的」な世紀の大発見が報告される10月9日の夜は、ジャスコでその夜と朝の食料品を購入して22時45分にオフィスに出向いてきました。10月8日から9日にかけても各地で晴天が続いていたらしく、その日の朝にオフィスを離れてから約半日間に、門田氏、雄踏の和久田俊一氏、八束の安部裕史氏らから、多くの追跡観測がそれぞれ複数回にわたって報告されていました。また、ドイツのメイヤーからは、前日の10月9日夜、00時10分に「レビー彗星(2006 T1)は、1743年に出現した彗星1743 C1と同定可能なのではないか」というメイルが届きます。氏の指摘については、その夜の01時07分に私の意見を送っておきました。すると、彼からの返事がこの日(10月9日)の夕刻15時58分に届いていました。

そして、ドラマが起きます。夜半を過ぎた10月10日03時50分に板垣氏から電話があります。氏は「この前、過去に未確認のPSN(超新星状天体)について、その後の観測のまとめをお送りしました」と語ります。一瞬、ぎっくとして『ごめんなさい。まだ、送ってない』と言ってしまいました。すると、氏は「いや、そうじゃないんです」。『えっ、と言うと……』と言葉を返しました。氏は「その銀河を今夜、もう一度捜索したのです」。『あっ、そうですか。それで……』。「はい。信じられないほど明るい星が輝いていました。」。『出現位置は同じなのですか』。「はい。ほとんど変わりありません。これから発見報告を送ります」とのことでした。その氏の報告が04時00分に届きます。そこには「系外銀河UGC 4904を2006年10月10日02時57分に30秒露光で撮影した捜索フレームに13.8等の超新星を見つけました。極限等級は19.5等です。その後に撮影した10枚以上のフレーム上にこれを確認しました。40分間の追跡で移動は認められません。過去に撮影した極限等級が20.0等の捜索フレーム上には、この星の姿はありません。もっとも最近の捜索は今年9月23日ですが、まだ出現していませんでした」という報告と、その出現位置が測定されていました。それによると、この超新星は、銀河核から西に11"、南に7"の位置、赤経α=09h17m20s.78, 赤緯δ=+41゚54'32".7に出現していることになります。上の2年前の超新星状天体の位置と比べるとわかるとおり、出現位置の違いは0".45しかありません。位置天文学的にはこれはもう同じ天体です。

とりあえず、氏の発見をダンに連絡することにしました。04時22分のことです。その報告には「お前は、2年前にItagakiがUGC 4904に18等級の超新星状天体を発見したことをおぼえているか。この未確認天体は、まだ、そちらの未確認天体リストに残っている。彼は、発見後にこの超新星を複数夜にわたって確認したのに、お前は、この星の光度が彼の限界等級に近いという理由で無視し続けてきた」という書き出しから始まっていました。そして、板垣氏に電話を入れました。板垣氏は「同じものでしょうか」。『位置的には、そうでしょう。ただ、遠方の銀河だから0".45の違いは、現場では、何千光年も離れていることになるかも。もし、視線方向に並んでいるなら何万光年ですねぇ』という笑い話をしました。04時31分になって、板垣氏から、超新星が出現していない時期と2004年と2006年の発見画像が届きます。そこでこれらの画像を04時52分にダンに参考のため『この星は、我々の銀河内の変光星なのか。そうなら、多くの過去画像のどれかに写っていてもいいはずだが……』というメイルをつけて送付しておきました。そして、07時25分、晴れているとはいえないような薄曇の空をながめながら帰宅しました。この日は、例によって、また、大そうじの日でした。

10月10日夜は、22時40分にオフィスに出向いてきました。この夜は、11日01時04分に門田氏から「先ほど帰宅しました。昨夜は作業を終えて就寝後でしたので、対応できませんでした。明るい超新星ですのでねらってみようと思っていたのですが、帰宅前はまだ晴れ間があった空は、上尾駅を下りると月が見えないくらいの曇天でした」という連絡があります。どうも上尾での第2夜目の確認は無理そうです。その直後の01時08分に『新しく計算したレビー彗星の軌道からの過去軌道が1743年に戻る』という情報をメイヤーに送っておきました。そして、『晴れてれば……13等級じゃここでも確認できる』と思って窓から空を見上げましたが、雨が吹き込むくらいの大雨が降っていました。このことは、02時07分に板垣氏に連絡しました。すると、03時00分に氏からメイルが届きます。そこには「何かとありがとうございます。うす雲があり透明度も悪く、測定にはまずいかな……と思いながら10枚撮影して5枚を測定しました。測定にばらつきは出ず、結果は大丈夫でした。その後、空が悪くなってきました。より良い観測は無理のようですので、今日はこれで報告とします」という再観測が届きます。氏の光度は13.9等でした。この氏の確認は、03時11分にダンへ「もし、この星が手前にある銀河系内の変光星ならば、変光範囲は大きすぎるし、光度上昇が急すぎる。従って、超新星だろう」というメイルとともに報告しておきました。

とにかく、これで第2夜目の観測が得られ、この星が13.9等で存在することを確認できたことになります。ただ、中央局では、このように小さい銀河に明るい超新星が現れるよりも、我が銀河系にある変光星が銀河に重なって見えている可能性もあることを考えたのか、なかなか公表してくれませんでした。そのため、この日の朝は、その公表を見ずに、08時10分、小雨の中を帰宅しました。

その日(10月11日)は、19時10分に自宅を出て、郵便局と地元のスーパーで買い物をして、20時00分にオフィスに出向いてきました。するとその日の昼、この超新星が公表されたCBET 666が12時24分に到着していました。しかし、そこではまだ超新星状天体という表記になっていました。それによると、板垣氏の発見のあと、10月10日17時JSTに米国のパケットらによる独立発見が報告され、ようやく超新星状天体としてこの発見を公表したもののようです。結局、この超新星はミシガン・ダートマス・MIT天文台(MDM)の2.4-m反射によってスペクトル観測され、特異な超新星であることが判明しました。そのことが、それから約1日半後の10月13日00時34分に届いたCBET 672で公表されます。そこで、板垣氏の発見を伝える「新天体発見情報No.94」を05時00分に発行し、報道各社に送りました。そこには、この超新星の発見の経緯とともに『私には「2年前に、一度、超新星爆発の準備をしたものの、途中で何かの理由で死ぬのを思いとどまった星が、気を取り直して、今、超新星爆発をして死んでいった変わった超新星」のように思われます』というコメントをつけ加えておきました。それを発行した後、07時05分に薄晴れの空の下、帰宅しました。

その10月13日、睡眠中の16時頃に電話のベルが鳴ります。『放っておくと止まるだろう。間違い電話でなければ、もう一度かけてくるはずだ』と思いながら呼び出し音を数えていると、22回のベルで止まりました。その後、電話がかかりませんでしたので、『なぁ〜んだ。間違い電話だ』と思って眠っていると17時40分に、またベルが鳴ります。10回目まで放っておきましたが、気になって受話器を取りました。すると、板垣氏です。『どうしましたか』とたずねると、「中野さん。今、栃木に来ています。望遠鏡のメンテナンスが終わって帰るところなんですが、朝日新聞の夕刊に例の超新星が出ています」。『それは良かったですね。おめでとう』と答えると、「いや、その中で学者さんも、中野さんが発見情報に書いたことと同じことを言っています。発見情報を見たときは、変なことを書いているなぁ……と思っていたのですが……」という連絡でした。このように、この特異な超新星は、このあと多くの人たちの研究対象となります。今後、多くの研究成果が発表されるでしょう。

さて、早く起こされたのを幸いに、夕方の空に見えてきたSWAN彗星を観測しようと、18時30分にオフィスに出向いてきました。望遠鏡のセットを始めて、初めて気づきました。何にもないと思っていたところにも、教習所の何本もの水銀灯があるだけでなく、南には会社の強烈な照明、ちょうど彗星が見えると思われる位置には6階建てのビルまでありました。そのため、夕方の低空でのこの彗星の観測はあきらめることにしました。

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