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● 七夕伝説 ●

七夕伝説のおこりは中国です。もともとは、中国の牽牛、織女星の伝説と、裁縫の上達を願う乞巧奠(きこうでん)の行事とが混ざりあって伝わったものといわれています。

2人は夫婦なのですが仕事をせずに遊んでばかりいたので年に1回のデートの日以外は仕事、仕事の毎日を強制されるという儒教的思想の色濃いお話。昔の農民が七夕伝説という物語で「仕事、仕事」の毎日を哀れむために作られたのが最初なのではないかといわれています。

七夕伝説がはじめて文献に登場したのは、漢の時代に編纂された『文選』の中の「古詩十九編」で、その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』の中にも記述があり、このころになって、七夕伝説が完全な説話の形になったのだろうといわれています。

日本へは遣唐使などによってもたらされ、日本に従来からあった棚機津女(たなばたつめ)の信仰とが混ざってできたとされていますが、その他にも琉球地方には羽衣伝説などと混ざった形で七夕伝説が伝承されており、正確にいつ日本に伝わったかは定かでありません。

江戸時代には、書道学問の上達を願う行事となり、また、おり姫星とひこ星を引き合わせるため、たらいに水を張り、そこに2つの星を反射させてわざとたらいをゆらし、2つの星があたかもくっついたようにすることも行われていたようです。

この物語にまつわるお話はさまざまなものがありますが、ここでは、現在、広く語られている織女牽牛伝説を物語風にアレンジしてお話しましょう。

<織女牽牛伝説>

むかしむかし、天帝という神様が星空を支配していたころ、天の川の西の岸に、織女(しょくじょ)という天帝の娘が住んでおりました。織女は機織り(はたおり)がたいへん上手で、彼女の織った布は雲錦と呼ばれ、色も柄も美しく、丈夫で着心地も軽い、素晴らしいものでした。

(挿し絵)

一方、天の川の東の岸には、牛飼いの青年、牽牛(けんぎゅう)が住んでおりました。牽牛は、毎日、天の川で牛を洗い、おいしい草を食べさせたりと、よく牛のめんどうをみる、働き者でした。

天帝は、くる日もくる日も、働いてばかりいる娘を心配して、娘の結婚相手をさがすことにしました。そして、天の川の向こう岸に住む牽牛をみつけると、2人を引き合わせ…

「おまえたち2人は、まじめによく働く。牽牛よ、わしの娘、織女と夫婦(めおと)にならぬか?」

牽牛は恐縮したようすで

「天帝様、私のような者には、夢のようなお話しでございます。ありがたくお受けさせていただきます」

織女も、働き者の牽牛をたいへん気に入り、2人はめでたく夫婦となりました。

(挿し絵)

ところが、一緒に暮らすようになると、2人は朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりをしています。

これを見た天帝は

「おまえたち、そろそろ仕事をはじめたらどうだ?」

といましめますが、牽牛と織姫は

「はい、明日からやります」

と答えるばかりで、いつになっても仕事をはじめるようすがありません。

織女が布を織らなくなってしまったため、機織り機にはホコリがつもり、天界にはいつになっても新しい布が届きません。また、牽牛が世話をしていた牛たちも、やせ細って、次々に倒れてしまいました。

業を煮やした天帝はとうとう、2人を引き離し、1年に1度、7月7日の夜だけ、天の川を渡って、会うことを許しました。

今でも2人は、7月7日に会えるのを楽しみにして、天の川の両岸でまたたいているとのことです。

(天の川の写真)

イラストは「ステラナビゲータ Ver.5」のプラネタリウム番組から抜粋しました。写真提供:藤井旭氏